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インターネット

無名サイトのつづき

失われた社会性を求めて

学生時代は、どうして大人がことあるごとに「飲み」に行くのか全く分からなかった。

集まるにしてももっと他の口実はいくらでもありそうなものだし、そもそも友人同士であれば、何か話をする時に必ずしもアルコールが必要であるとも思えない。(これはファミレスのドリンクバーで何時間でも粘っていられた学生の感覚かもしれない) まして金銭的にも時間的にも決して安くはないコストを払って、時には体調を崩すまで飲み続けるのだから、これはもう理解の範疇外だった。

個人的に、アルコールを受け付けない体質なこともあって、社会人になってしばらく経ってからもずっと疑問に思い続けていたのだが、ある時に気が付いた

「成人男子が集まる大義名分は、『飲み』しかない」

そう、例えば共通の趣味があるなら、とにかく共に趣味を楽しもうという点で誘い合えるであろう。旅行でもスポーツでも音楽でも何でもいい。共通の話題というのがわかりきっているのだから。しかし、趣味以外がベースでのコミュニティではそうもいかない。そんな時、共通の趣味や嗜好によって繋がるコミュニティの前段階として、そうしたものをお互いに見出そうという時に使われるのが「飲み」なのだ。

また、共通の趣味や嗜好を持っていたとしても、大人というものはお互いに忙しいものであるということになっている。そうした中で時間を割く理由として公に認められた大義名分として「飲み」が存在しているのだ。

実際はアルコールを飲むことではなく与太話が目的だとしても、そしてその辺のコンビニの駐車場で立ち話で与太話「だけ」をすることは可能であっても、大人になるとそのきっかけは「飲み」になる。

つまり、大人としてのコミュニケーションの最低段階にこの「飲み」が存在しているわけで、これに対して恐怖感を抱いていたり、理解が出来ないというのは社会性が失われた状態であるといっても過言ではない。

そう考えると、アルコールに弱くて「飲み」というだけで半歩どころか三歩は腰が退けるうちは、当面社会性が失われたままなのであろう。アルコール弱者の立場からすればこれは飲める人間の横暴そのものであるので、アルコールを含まない別の大義名分の確立が急務とされるのだが、小一時間考えてもいい代替案は出てこなかった。飲めなくても楽しい会はあるとかそういう意見は一切聞いてないし聞くつもりもない。

ちなみにこの「飲み」の女性版が「お茶」であるように男性側からは見えるのだが、実際の精神性の違いなどについては知見を持ち得ていないので他に譲ることとする。