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無名サイトのつづき

ゲーム性の変質

冬コミの原稿が終わったので、コミケ前後は(外出するには体調が思わしくなかったこともあり)ずっと家でゲームをしていた。タイトルは原稿中からずっと気になっていたDEATH STRANDINGである。

このゲームについてはその成り立ちからしていくらでも書きようがあるし、実際賛否含めてそうした外野の感想も含めてかなり盛り上がっているタイトルの一つであることは間違いない。まだクリアはしていないが、とりあえずある程度のところまでは進めた。そしてある程度までのところまで進めて、以降しばらく手に付いていない。

手に付いていない理由は主に仕事が始まったからなのだが、それ以外にも自分の中でプレーの手を止めてしまった理由が一つある。

それは、ある章からのゲーム性の変質である。

詳しくはネタバレになってしまうし、また先に述べた通り未だクリアもしていないのだが、このゲームではとある章をクリアしたところで、これまでとは異なる内容に切り替わり、同時にこれまでとは種類の異なる立ち回りを要求されるようになる。ここまでに積み上げてきたノウハウが全部とは言わずとも一部はリセットされてしまうのだ。そして実際にそこで少しゲームオーバーを繰り返したので、少し心が離れてしまった。なので多少触る時間はあったにも関わらずしばらくプレーしていない……というのが現状である。

まぁ、DEATH STRANDING自体は面白いし先も気になるので、おそらくはこの挫折についてもじきに克服して、再びゲームをするんだろうなというのはなんとなく感じている。だが、思えばゲームにおいてこういう「突然のゲーム性の変質」とそれに伴う挫折みたいなものは何度か経験してきた。せっかくなので、ここではその中で印象深いものを二つほど挙げてみようと思う。

まず、こうした「ゲーム性の変質」を最初に意識してしまったゲームは、PS2で発売された元気のKAIDO -峠の伝説-というレースゲームであった。これは当時の同社の看板シリーズであった首都高バトルと対をなす作品であり、首都高バトルの首都高(最高速)文化に対する峠(ドリフト)文化のゲーム化といった流れの作品であった(シリーズ作としてこれ以前に街道バトルという作品があり、その中の最終作にあたる)。

さて、このゲームにおける「ゲーム性の変質」とは何だったのか、それはゲームを進めるごとに明らかになる「グラベル(未舗装路)指向」である。当時はWRCを日本に誘致しラリージャパンが実現していた時期だったこともあり、峠とラリーというのは延長線上にあるというか、比較的親和性の高いモノだと考えられていたのである。

……しかし、そうは言っても、このゲームを買う層というのは現実と見まがうばかりにリアルに再現された各地の峠道を、華麗なドリフトで駆け抜けるというのを求めていた筈である。

実際、途中まではそういうゲームなのだが、いつしか「工事中」というテイでコースの特定区間が突然グラベルになりはじめ、段々「峠道を華麗なドリフトで駆け抜けるゲーム」から「突然の未舗装路に怯えながらおっかなびっくり走るゲーム」へと変質していく。そもそも現実の峠では突然グラベルになったりしない。ゲームにしても話がおかしい。

そうこうしているうちに最終ステージである北海道ではほぼ全面グラベルになってしまい、ついでに峠でもなくなりこの違和感は頂点に達することになる。「峠道でドリフトするゲーム」を買ったつもりが、いつの間にか「ダートを走るゲーム」になってしまったのである。もちろんパッケージを見る限りではこのゲームは「峠道でドリフトをするゲーム」にしか見えないのであるが。

結局、疑問符がいくつも頭に浮かびながらも乗りかかった船とばかりにゲーム自体はクリアしたのだが、グラベルでのコントロールはそれまでの舗装路とは若干異なるスキルを求められることや、最終ステージで上昇する難易度も相まって「俺はこんなことをするためにこのゲームを買ったんだろうか……」という問いがエンディングまで消えることはなかった。それどころか、10年以上経ってもこんな文章を書く程度には心の片隅に引っかかり続けているのである。

そして、これが原因なのかどうかはわからないが、街道バトルというシリーズはこの作品を最後に製作されていない(首都高バトルはもう少し生き長らえたのだが、こちらも現在では……)。

とはいえ、これはゲーム性の変質に首をかしげながらも最後までプレーした作品である。しかし、ゲーム性の変質によってまったく興味を失ってしまったこともある。こちらの例として、Ingressを挙げることにしよう。

このゲームはいわゆるスマートフォンの位置情報を利用する「位置ゲー」の一つであり、今となってはPokemon GOの前身的な捉え方をされているゲームでもある(開発元が同じ)。

主なゲーム内容としては二陣営(二色)に分かれた陣取りゲームで、各地に存在するチェックポイントにスマートフォンを持って訪れることでチェックインが可能になっている。このチェックポイントを自陣営の色で埋め、更に自陣営同士のチェックポイント間を繋ぐことで、その自陣営のチェックポイントで囲まれた範囲は自陣営の色に塗りつぶすことが出来る。この塗りつぶされた部分が自陣営の陣地ということになる。

もちろんチェックポイントを他陣営が占拠している場合もあり、その場合はチェックポイントに対して攻撃を仕掛けて色を塗り替えることも可能になっている。こうして他陣営に占拠されたチェックポイントを自陣営側に取り返したり、あるいはより広範囲のチェックポイントを繋いで塗りつぶすことで無効化したの繰り返しによって、相手よりもより多くの陣地を取ることが目標のゲームである。

さて、このゲーム(Pokemon GO以前の話になるが)日本国内でも結構な話題になった。元々はGoogleが開発していたということもあり、全世界がエリアという壮大さと、リアルイベントの存在なども相まって散歩ついでに始めたらハマったという人が結構な数存在していたのである。例えば、PC Watch上でライターの後藤氏によって三回にわたって(!)書かれたIngress入門記などが代表的なものだろう。

pc.watch.impress.co.jp

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実際にこうした記事や、また既に始めていて面白いという評判も聞いていたのでこの記事と前後して一時期はけっこうな頻度でIngressをプレーしていた。ハマってる時期にはそれこそ毎日寄り道したり、旅行中だというのにチェックポイントを探しては同行者に呆れられたりしていたのである。しかし、現在では全くプレーしていない。その理由もまた「ゲーム性の変質」である。

このゲーム、位置情報ゲームでありながら、いわゆる当時のソーシャルゲームとは異なる流れで開発されていたこともあり、ソーシャル要素というのはパッと見控えめになっていた。実際にやれることのほとんどはプレーヤー一人で完結するものであり、ゲームのソーシャル要素が好きではない者にとっても取っつきやすいゲームになっていたのである。

しかし、これはある一定のレベルまでの話で、一人で到達出来るあるレベルまで行くと、更なるレベルアップには途端にソーシャル要素が必須となってしまう。というのも、高レベルのアイテムは高レベルのチェックポイントからしかドロップせず、またこのゲームでチェックポイントのレベルを高める為には、同じチェックポイントに高レベルのプレーヤーが多数チェックインする必要があるからである。

そして、こうしたチェックポイントは常に他陣営からの攻撃に晒されるため、最も効率が良い方法は「リアルに一度にたくさんの高レベルプレーヤーが集まって、一緒にプレーする」ということになる。そうすれば他陣営の攻撃を受ける前に高レベルチェックポイントの恩恵にあずかることが出来るし、他陣営を攻撃する場合も高レベルプレーヤーの火力が集中すればそれだけ効率がいいからである。これは一人だけでプレーをしていては受けられない恩恵ということになる。

つまり、そもそものゲームデザイン的に高レベルになるほどソーシャル的に集まって協力プレーをするほうが効率が良い──というか、協力プレーを強制される──システムになっているのだ。そしてこの協力プレーに背を向けると、高レベルチェックポイントの恩恵を受けられなくなるため、時にはゲームを進行する為のアイテム入手すらおぼつかなくなってしまう(それでも都会なら野良プレーの余地もあるが、田舎だとそもそもプレーヤーもチェックポイントも少ないため尚更深刻)。

しかし、それまで「一人でもそれなりに遊べるゲーム」としてプレーしていたユーザーは、おそらくこのゲーム性の変質には耐えきれない。あるレベルを境にまったく別のゲームになってしまったと感じるだろうし「一人でも出来る」ことに魅力を感じていたのであれば裏切られたような感覚すら覚える筈である。

というわけで、こうしたゲーム性の変質に絶望し、あるレベルに到達して以降はパッタリ起動しなくなってしまった。かつてはあれほどハマっていたのに、である。

こういうゲーム性の変質というのは、その程度を問わずそこかしこに存在する。同じゲームの中でも見た目や手触りが変わるだけのケース(DEATH STRANDINGやKAIDOはこのケースだろう)の他にも、Ingressに挙げたような、見た目は全く同じなのにやるべきことがまるっきり変わってしまうというケースもある。そのどちらにも楽しみを感じることが出来ればゲームプレーは続いていくが、一方でそこに躓いてしまえばそこで終わり……というわけである。

とはいえ、ゲーム体験というのはプレーヤーの想像を超えたり、心地よく裏切るようなことの繰り返しで構成されていることも確かなので、こうした変質もまた乗り越えてこその体験であるとも言える。

この辺りのバランス感覚はおそらくは難しいし、それも含めてのゲームと言ってしまえばそれまでなのだが、それでもこの変質によってモヤモヤした気持ちが残ったり、時にはゲームを止めてしまうということもまた確かなのだ。