インターネット

無名サイトのつづき

チラシの表

「インターネットはチラシの裏

これまでにもよく言われてきた言葉である。そこには自由があったからだ。

少なくともある一時期、インターネットがフリーハンドで何でも書ける真っ新なキャンバスであったのは誰もが認めるところであろう。そしてこの言葉の裏には、素人が不正確な情報や悪意をも発信出来る無法地帯であり無価値であるという既存メディア側からの侮蔑の意味も込められていた。

故にチラシの裏という言葉はインターネットユーザーの側が発する場合は半ば自嘲気味ではあるがその実プライドを込めて、対する既存メディア側は批判的に、対立する両者によって異なる文脈で用いられてきた。

実際に2020年現在を考えてみればこうした無法地帯という認識は実は誤りであって、ある程度のクオリティを求められた結果、どんどんユーザージェネレイティッドのコンテンツは減っていき、インターネット上にもプロが仕事として行った、ある程度のクオリティを担保された記事で溢れるようになった。つまりインターネット側も既存メディアに寄っていったのだ。

もちろんかつての自由度も未だに残ってはいるのだが、全体としてはインターネットの「自由さ」「素人目線」みたいなものはずいぶん減ってしまい、各個々人レベルでの情報発信活動はSNSに押し込められてしまったように思える。

また、チラシの裏という言葉の更に下の存在として便所の落書きという言葉もあり、これは特定の匿名掲示板を指した言葉であったように思えるが、この匿名掲示板という文化もこれらの言葉が使われだした頃から考えると勢いはだいぶ落ち着いてしまったと感じる。

さて、ご存じのようにインターネットは基本無料というモデルが長いこと成立してきた。大手のサイトはその集客により広告を集めて運営していたし、個人がwebサイトを開設する際も広告付きという条件で無料でスペースを借りて始めるのが一般的であった。この基本無料で自分の情報を発信出来るというシステムは画期的なもので、00年代初頭の今となっては懐かしい個人サイトのブームもこれがなくては成立しなかったことだろう。

かくいうこのサイトもはてなブログというシステム上で更新されており、PRO(有料)契約をしていないので作る側としてこのスペースを維持することに費用はかかっていない。また見る側の立場でも特に費用を必要としてはいないはずである。最近はnoteとかそういうでチラ見せ有料商法というか、まぁ個人発信でも金払わないと読めない見れないみたいなのが出てるが、基本無料が骨の髄まで染み渡ってるネットユーザーとしてはネット上でああなってると萎えるというのが正直なところである。もちろんああやってでもマネタイズする必要が出てきたということは理解しており、それはまた新たなネットの歪みでもあるのだが、とりあえず今回についてはそこは本論ではない。

ともかく、このサイトを始めとしたインターネットのほとんどは書く側にも読む側にも金銭的負担がなく基本無料ということになっており、その根底を支えるのは広告だということも誰もがなんとなく認識している。無料ということは誰かが代わりにコストを負担しているということになるし、その誰かというのがつまり広告(広告主)なのである。つまり、ある意味ではユーザーは広告に生かされているということになる。

しかし、不思議なことにネットユーザーは基本広告というものが嫌いである。インターネットというものを動作させている根底のシステムの一つにも関わらず、広告なんてなくなればいいというのは一種の共通認識であるし、webサービスを行う側にも「有料プランは広告が入らない」ということをウリにしている。一般的に煩わしくて消えてほしいものと誰もが思っている(そしてそれを消し去ることに価値が生まれる)とされているのだ。

考えてみれば確かにインターネット上の広告というのは度を越したものがたくさんあった。古くは無限ポップアップと呼ばれるバナーが多数起動して当時潤沢とは言えなかったメモリを食い潰してしまうものが存在したし、例えば往年のエロサイトは20個入り口のリンクがあったらそのうち19個は別サイトの広告リンクというものであった。今みたいに検索して即エロ動画が見れるようになるまでには凄まじいまでの戦いがあったのだ。知らんけど(この辺の話を知ってる人ならQ2という文字はトラウマであろう)。

最近でも大画面化するスマホをあざ笑うかのようにスマホ向けサイトの広告バナー面積も増加しており、あげく誤タッチを誘発するような動作をするものもあって数々のユーザーを苛つかせている。動画サイトに関しても、最初の数秒はスキップボタンが押せない30秒広告のスキップをようやく押せたと思ったら続けて5秒広告が始まってげんなりした人は多いのではないだろうか。エロサイトの話は流石に性質が違うにしても、ふつうのインターネットでさえも、我々は広告なしには閲覧することが出来ないのだ。

もちろん、これは既存メディアであっても似たようなものではある。テレビはインターネット同様地上波民放の場合基本無料であるが、これらはCMという広告によって成立している。TVで映画が放送されることもあるが、CMや編集が嫌ならパッケージソフトに課金しろというのは広く受け入れられている。雑誌等にしても同様である。

故に既存メディアではスポンサーに逆らえない空気が存在するとも言われているが、これは広告に直接生かされている側としては至って当たり前のことであろ。一方のインターネットは、広告に生かされているとは言っても(webサイトやサービスを介した)間接的なものであるし、ユーザーは作り手であると同時に受け手でもあるので基本的には広告はウザったいものであるという認識が共有されやすかったのではないかと思われる。

また、インターネットでの特殊事情としては、かつて起きた様々な事件により広告だけでなくこうした広告を司る広告代理店もインターネットユーザーの敵となったことが挙げられる。特に広告代理店については「基本無料のインターネットで生まれたもので金儲けをする悪い奴ら」というイメージが一部には確実に根付いてしまった。基本無料の世界で生まれた共有財産で自分たちだけ金儲けをするという行為がインターネットユーザーの逆鱗に触れたのである。

そもそもインターネットは既存メディアに対するカウンターメディアとしての意味合いもあり、そういう意味では既存メディアというのは広告代理店に支配されているもの(と一部では信じられている)であり、言わば広告代理店というのは敵の親玉であった。広告や広告代理店アレルギーとも言えるような拒絶ぶりについては、せめてインターネットは既存広告代理店には支配されたくないという意識もあったのではないかと思われる。

かくして、インターネットユーザーにとって広告と広告代理店は不倶戴天の敵となった。

しかし、どんなにインターネットユーザーが広告やそれに関係した広告代理店を嫌おうと、インターネットの基本無料を支えているのが広告にあるというのは先に述べた通り、好むと好まざるとは別としても事実である。そういう意味ではインターネットユーザーの広告や広告代理店アレルギーというのは常に矛盾を抱えており、アンビバレントなものなのだ。

そしてここで冒頭の「チラシの裏」という言葉が案外的を射ていたことにも気付くのだ。インターネットは紛れもないチラシの裏である──もはやそこは広告という「チラシの表」がなければ存在出来ない──しかしその裏は真っ白で、自由なキャンバスでもあるのだ。広告や広告代理店は大嫌いだとしても。