インターネット

無名サイトのつづき

チラシの表

「インターネットはチラシの裏

これまでにもよく言われてきた言葉である。そこには自由があったからだ。

少なくともある一時期、インターネットがフリーハンドで何でも書ける真っ新なキャンバスであったのは誰もが認めるところであろう。そしてこの言葉の裏には、素人が不正確な情報や悪意をも発信出来る無法地帯であり無価値であるという既存メディア側からの侮蔑の意味も込められていた。

故にチラシの裏という言葉はインターネットユーザーの側が発する場合は半ば自嘲気味ではあるがその実プライドを込めて、対する既存メディア側は批判的に、対立する両者によって異なる文脈で用いられてきた。

実際に2020年現在を考えてみればこうした無法地帯という認識は実は誤りであって、ある程度のクオリティを求められた結果、どんどんユーザージェネレイティッドのコンテンツは減っていき、インターネット上にもプロが仕事として行った、ある程度のクオリティを担保された記事で溢れるようになった。つまりインターネット側も既存メディアに寄っていったのだ。

もちろんかつての自由度も未だに残ってはいるのだが、全体としてはインターネットの「自由さ」「素人目線」みたいなものはずいぶん減ってしまい、各個々人レベルでの情報発信活動はSNSに押し込められてしまったように思える。

また、チラシの裏という言葉の更に下の存在として便所の落書きという言葉もあり、これは特定の匿名掲示板を指した言葉であったように思えるが、この匿名掲示板という文化もこれらの言葉が使われだした頃から考えると勢いはだいぶ落ち着いてしまったと感じる。

さて、ご存じのようにインターネットは基本無料というモデルが長いこと成立してきた。大手のサイトはその集客により広告を集めて運営していたし、個人がwebサイトを開設する際も広告付きという条件で無料でスペースを借りて始めるのが一般的であった。この基本無料で自分の情報を発信出来るというシステムは画期的なもので、00年代初頭の今となっては懐かしい個人サイトのブームもこれがなくては成立しなかったことだろう。

かくいうこのサイトもはてなブログというシステム上で更新されており、PRO(有料)契約をしていないので作る側としてこのスペースを維持することに費用はかかっていない。また見る側の立場でも特に費用を必要としてはいないはずである。最近はnoteとかそういうでチラ見せ有料商法というか、まぁ個人発信でも金払わないと読めない見れないみたいなのが出てるが、基本無料が骨の髄まで染み渡ってるネットユーザーとしてはネット上でああなってると萎えるというのが正直なところである。もちろんああやってでもマネタイズする必要が出てきたということは理解しており、それはまた新たなネットの歪みでもあるのだが、とりあえず今回についてはそこは本論ではない。

ともかく、このサイトを始めとしたインターネットのほとんどは書く側にも読む側にも金銭的負担がなく基本無料ということになっており、その根底を支えるのは広告だということも誰もがなんとなく認識している。無料ということは誰かが代わりにコストを負担しているということになるし、その誰かというのがつまり広告(広告主)なのである。つまり、ある意味ではユーザーは広告に生かされているということになる。

しかし、不思議なことにネットユーザーは基本広告というものが嫌いである。インターネットというものを動作させている根底のシステムの一つにも関わらず、広告なんてなくなればいいというのは一種の共通認識であるし、webサービスを行う側にも「有料プランは広告が入らない」ということをウリにしている。一般的に煩わしくて消えてほしいものと誰もが思っている(そしてそれを消し去ることに価値が生まれる)とされているのだ。

考えてみれば確かにインターネット上の広告というのは度を越したものがたくさんあった。古くは無限ポップアップと呼ばれるバナーが多数起動して当時潤沢とは言えなかったメモリを食い潰してしまうものが存在したし、例えば往年のエロサイトは20個入り口のリンクがあったらそのうち19個は別サイトの広告リンクというものであった。今みたいに検索して即エロ動画が見れるようになるまでには凄まじいまでの戦いがあったのだ。知らんけど(この辺の話を知ってる人ならQ2という文字はトラウマであろう)。

最近でも大画面化するスマホをあざ笑うかのようにスマホ向けサイトの広告バナー面積も増加しており、あげく誤タッチを誘発するような動作をするものもあって数々のユーザーを苛つかせている。動画サイトに関しても、最初の数秒はスキップボタンが押せない30秒広告のスキップをようやく押せたと思ったら続けて5秒広告が始まってげんなりした人は多いのではないだろうか。エロサイトの話は流石に性質が違うにしても、ふつうのインターネットでさえも、我々は広告なしには閲覧することが出来ないのだ。

もちろん、これは既存メディアであっても似たようなものではある。テレビはインターネット同様地上波民放の場合基本無料であるが、これらはCMという広告によって成立している。TVで映画が放送されることもあるが、CMや編集が嫌ならパッケージソフトに課金しろというのは広く受け入れられている。雑誌等にしても同様である。

故に既存メディアではスポンサーに逆らえない空気が存在するとも言われているが、これは広告に直接生かされている側としては至って当たり前のことであろ。一方のインターネットは、広告に生かされているとは言っても(webサイトやサービスを介した)間接的なものであるし、ユーザーは作り手であると同時に受け手でもあるので基本的には広告はウザったいものであるという認識が共有されやすかったのではないかと思われる。

また、インターネットでの特殊事情としては、かつて起きた様々な事件により広告だけでなくこうした広告を司る広告代理店もインターネットユーザーの敵となったことが挙げられる。特に広告代理店については「基本無料のインターネットで生まれたもので金儲けをする悪い奴ら」というイメージが一部には確実に根付いてしまった。基本無料の世界で生まれた共有財産で自分たちだけ金儲けをするという行為がインターネットユーザーの逆鱗に触れたのである。

そもそもインターネットは既存メディアに対するカウンターメディアとしての意味合いもあり、そういう意味では既存メディアというのは広告代理店に支配されているもの(と一部では信じられている)であり、言わば広告代理店というのは敵の親玉であった。広告や広告代理店アレルギーとも言えるような拒絶ぶりについては、せめてインターネットは既存広告代理店には支配されたくないという意識もあったのではないかと思われる。

かくして、インターネットユーザーにとって広告と広告代理店は不倶戴天の敵となった。

しかし、どんなにインターネットユーザーが広告やそれに関係した広告代理店を嫌おうと、インターネットの基本無料を支えているのが広告にあるというのは先に述べた通り、好むと好まざるとは別としても事実である。そういう意味ではインターネットユーザーの広告や広告代理店アレルギーというのは常に矛盾を抱えており、アンビバレントなものなのだ。

そしてここで冒頭の「チラシの裏」という言葉が案外的を射ていたことにも気付くのだ。インターネットは紛れもないチラシの裏である──もはやそこは広告という「チラシの表」がなければ存在出来ない──しかしその裏は真っ白で、自由なキャンバスでもあるのだ。広告や広告代理店は大嫌いだとしても。

 

ゲーム性の変質

冬コミの原稿が終わったので、コミケ前後は(外出するには体調が思わしくなかったこともあり)ずっと家でゲームをしていた。タイトルは原稿中からずっと気になっていたDEATH STRANDINGである。

このゲームについてはその成り立ちからしていくらでも書きようがあるし、実際賛否含めてそうした外野の感想も含めてかなり盛り上がっているタイトルの一つであることは間違いない。まだクリアはしていないが、とりあえずある程度のところまでは進めた。そしてある程度までのところまで進めて、以降しばらく手に付いていない。

手に付いていない理由は主に仕事が始まったからなのだが、それ以外にも自分の中でプレーの手を止めてしまった理由が一つある。

それは、ある章からのゲーム性の変質である。

詳しくはネタバレになってしまうし、また先に述べた通り未だクリアもしていないのだが、このゲームではとある章をクリアしたところで、これまでとは異なる内容に切り替わり、同時にこれまでとは種類の異なる立ち回りを要求されるようになる。ここまでに積み上げてきたノウハウが全部とは言わずとも一部はリセットされてしまうのだ。そして実際にそこで少しゲームオーバーを繰り返したので、少し心が離れてしまった。なので多少触る時間はあったにも関わらずしばらくプレーしていない……というのが現状である。

まぁ、DEATH STRANDING自体は面白いし先も気になるので、おそらくはこの挫折についてもじきに克服して、再びゲームをするんだろうなというのはなんとなく感じている。だが、思えばゲームにおいてこういう「突然のゲーム性の変質」とそれに伴う挫折みたいなものは何度か経験してきた。せっかくなので、ここではその中で印象深いものを二つほど挙げてみようと思う。

まず、こうした「ゲーム性の変質」を最初に意識してしまったゲームは、PS2で発売された元気のKAIDO -峠の伝説-というレースゲームであった。これは当時の同社の看板シリーズであった首都高バトルと対をなす作品であり、首都高バトルの首都高(最高速)文化に対する峠(ドリフト)文化のゲーム化といった流れの作品であった(シリーズ作としてこれ以前に街道バトルという作品があり、その中の最終作にあたる)。

さて、このゲームにおける「ゲーム性の変質」とは何だったのか、それはゲームを進めるごとに明らかになる「グラベル(未舗装路)指向」である。当時はWRCを日本に誘致しラリージャパンが実現していた時期だったこともあり、峠とラリーというのは延長線上にあるというか、比較的親和性の高いモノだと考えられていたのである。

……しかし、そうは言っても、このゲームを買う層というのは現実と見まがうばかりにリアルに再現された各地の峠道を、華麗なドリフトで駆け抜けるというのを求めていた筈である。

実際、途中まではそういうゲームなのだが、いつしか「工事中」というテイでコースの特定区間が突然グラベルになりはじめ、段々「峠道を華麗なドリフトで駆け抜けるゲーム」から「突然の未舗装路に怯えながらおっかなびっくり走るゲーム」へと変質していく。そもそも現実の峠では突然グラベルになったりしない。ゲームにしても話がおかしい。

そうこうしているうちに最終ステージである北海道ではほぼ全面グラベルになってしまい、ついでに峠でもなくなりこの違和感は頂点に達することになる。「峠道でドリフトするゲーム」を買ったつもりが、いつの間にか「ダートを走るゲーム」になってしまったのである。もちろんパッケージを見る限りではこのゲームは「峠道でドリフトをするゲーム」にしか見えないのであるが。

結局、疑問符がいくつも頭に浮かびながらも乗りかかった船とばかりにゲーム自体はクリアしたのだが、グラベルでのコントロールはそれまでの舗装路とは若干異なるスキルを求められることや、最終ステージで上昇する難易度も相まって「俺はこんなことをするためにこのゲームを買ったんだろうか……」という問いがエンディングまで消えることはなかった。それどころか、10年以上経ってもこんな文章を書く程度には心の片隅に引っかかり続けているのである。

そして、これが原因なのかどうかはわからないが、街道バトルというシリーズはこの作品を最後に製作されていない(首都高バトルはもう少し生き長らえたのだが、こちらも現在では……)。

とはいえ、これはゲーム性の変質に首をかしげながらも最後までプレーした作品である。しかし、ゲーム性の変質によってまったく興味を失ってしまったこともある。こちらの例として、Ingressを挙げることにしよう。

このゲームはいわゆるスマートフォンの位置情報を利用する「位置ゲー」の一つであり、今となってはPokemon GOの前身的な捉え方をされているゲームでもある(開発元が同じ)。

主なゲーム内容としては二陣営(二色)に分かれた陣取りゲームで、各地に存在するチェックポイントにスマートフォンを持って訪れることでチェックインが可能になっている。このチェックポイントを自陣営の色で埋め、更に自陣営同士のチェックポイント間を繋ぐことで、その自陣営のチェックポイントで囲まれた範囲は自陣営の色に塗りつぶすことが出来る。この塗りつぶされた部分が自陣営の陣地ということになる。

もちろんチェックポイントを他陣営が占拠している場合もあり、その場合はチェックポイントに対して攻撃を仕掛けて色を塗り替えることも可能になっている。こうして他陣営に占拠されたチェックポイントを自陣営側に取り返したり、あるいはより広範囲のチェックポイントを繋いで塗りつぶすことで無効化したの繰り返しによって、相手よりもより多くの陣地を取ることが目標のゲームである。

さて、このゲーム(Pokemon GO以前の話になるが)日本国内でも結構な話題になった。元々はGoogleが開発していたということもあり、全世界がエリアという壮大さと、リアルイベントの存在なども相まって散歩ついでに始めたらハマったという人が結構な数存在していたのである。例えば、PC Watch上でライターの後藤氏によって三回にわたって(!)書かれたIngress入門記などが代表的なものだろう。

pc.watch.impress.co.jp

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実際にこうした記事や、また既に始めていて面白いという評判も聞いていたのでこの記事と前後して一時期はけっこうな頻度でIngressをプレーしていた。ハマってる時期にはそれこそ毎日寄り道したり、旅行中だというのにチェックポイントを探しては同行者に呆れられたりしていたのである。しかし、現在では全くプレーしていない。その理由もまた「ゲーム性の変質」である。

このゲーム、位置情報ゲームでありながら、いわゆる当時のソーシャルゲームとは異なる流れで開発されていたこともあり、ソーシャル要素というのはパッと見控えめになっていた。実際にやれることのほとんどはプレーヤー一人で完結するものであり、ゲームのソーシャル要素が好きではない者にとっても取っつきやすいゲームになっていたのである。

しかし、これはある一定のレベルまでの話で、一人で到達出来るあるレベルまで行くと、更なるレベルアップには途端にソーシャル要素が必須となってしまう。というのも、高レベルのアイテムは高レベルのチェックポイントからしかドロップせず、またこのゲームでチェックポイントのレベルを高める為には、同じチェックポイントに高レベルのプレーヤーが多数チェックインする必要があるからである。

そして、こうしたチェックポイントは常に他陣営からの攻撃に晒されるため、最も効率が良い方法は「リアルに一度にたくさんの高レベルプレーヤーが集まって、一緒にプレーする」ということになる。そうすれば他陣営の攻撃を受ける前に高レベルチェックポイントの恩恵にあずかることが出来るし、他陣営を攻撃する場合も高レベルプレーヤーの火力が集中すればそれだけ効率がいいからである。これは一人だけでプレーをしていては受けられない恩恵ということになる。

つまり、そもそものゲームデザイン的に高レベルになるほどソーシャル的に集まって協力プレーをするほうが効率が良い──というか、協力プレーを強制される──システムになっているのだ。そしてこの協力プレーに背を向けると、高レベルチェックポイントの恩恵を受けられなくなるため、時にはゲームを進行する為のアイテム入手すらおぼつかなくなってしまう(それでも都会なら野良プレーの余地もあるが、田舎だとそもそもプレーヤーもチェックポイントも少ないため尚更深刻)。

しかし、それまで「一人でもそれなりに遊べるゲーム」としてプレーしていたユーザーは、おそらくこのゲーム性の変質には耐えきれない。あるレベルを境にまったく別のゲームになってしまったと感じるだろうし「一人でも出来る」ことに魅力を感じていたのであれば裏切られたような感覚すら覚える筈である。

というわけで、こうしたゲーム性の変質に絶望し、あるレベルに到達して以降はパッタリ起動しなくなってしまった。かつてはあれほどハマっていたのに、である。

こういうゲーム性の変質というのは、その程度を問わずそこかしこに存在する。同じゲームの中でも見た目や手触りが変わるだけのケース(DEATH STRANDINGやKAIDOはこのケースだろう)の他にも、Ingressに挙げたような、見た目は全く同じなのにやるべきことがまるっきり変わってしまうというケースもある。そのどちらにも楽しみを感じることが出来ればゲームプレーは続いていくが、一方でそこに躓いてしまえばそこで終わり……というわけである。

とはいえ、ゲーム体験というのはプレーヤーの想像を超えたり、心地よく裏切るようなことの繰り返しで構成されていることも確かなので、こうした変質もまた乗り越えてこその体験であるとも言える。

この辺りのバランス感覚はおそらくは難しいし、それも含めてのゲームと言ってしまえばそれまでなのだが、それでもこの変質によってモヤモヤした気持ちが残ったり、時にはゲームを止めてしまうということもまた確かなのだ。

ゆめタウン読みという概念

先週末はマイルガチャ山口宇部空港行きを引き当てたので、せっかくだから萩でも行ってみようかと思ったら旅行前日に(空港へのアクセス線である)京急線の踏切事故があり迂回を余儀なくされたり、道中のドタバタがあったり、そうかと思えば復路の羽田着便が台風により欠航し急遽もう一泊する必要から延長戦が開始されたりと色々あった。これらの出来事はそれはそれで面白かったのだが、それは当記事の本題ではない。本題はもっと別にある。

……山口に都合2日ほどいて目に付いたのは、国道沿いに林立する大型ショッピングモールの数々である。だいたいあの辺りは関東でもお馴染みの巨大モールの代名詞であるイオンモールの他に、地場(四国・中国地方)の雄であるフジのフジグランだとか、同様に中国・九州地盤のイズミのゆめタウンなんかが各々に出店しその覇を競っている。

で、当然国道沿いを流しているとそれらが嫌でも目に付くのだが、特にゆめタウンは見かける度にとても気になって仕方が無かった。それは、店構えでも賑わいぶりでもなくもっと別の理由からである。

 

名前が変なのだ。

 

www.izumi.jp

名前が変というのはどういうことか──ゆめタウンを訪れたり、そもそも見たことのないという地方の人にはちょっとわからないだろう。そういう人は上記のリンクをクリックしてみてほしい。

そこに現れるのは「YOU ME」で「ゆめ」と読ませるロゴマークの存在である。

正直、最近は慣れてきたが、最初に中国地方を訪れて最初にこれを見た時の率直な感想は「気持ち悪っ!」であった。なんというか、到底承服できない悪寒のようなモノをこのロゴと読みには感じたのである。

では何故初見で気持ち悪く感じたのか。その理由は考えてみれば単純である。この読みは英語の「YOU」と「ME」という単語を使用していながら、片方は「ユ(ユー)」という英語読み、そしてもう片方は「メ」というローマ字読みを採用しているのだ。つまり、英語読みとローマ字読みのハイブリッドなのである。通常、このような読み方はしない。だからこそ「気持ち悪い読み方」なのだ。

図にするとこうなる。

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通常、「YOU ME」という文字から予測されるのは英語読みの「ユーミー」もしくはローマ字読みの「ヨウメ」である。図で言うと、水平に読んでいることになる。というか、通常はこの組み合わせ以外に選択肢は存在しない。しかし、ゆめタウンはこの図を斜めに突っ切っているのである。これは通常ではあり得ない読み方である。

しかし、英語ではないが実はこれに近い読み方というものが存在する。国語の時間に習った覚えがある方も多いかもしれないが「重箱読み」及び「湯桶読み」というものがそれである。

これらは音読みと訓読みを取り混ぜた読み方のことで、重箱読みの場合は「重」が音読みで「箱」が訓読みの組み合わせである。

さて、音読みというのは中国から漢字が伝わった際の読み方をベースにしたものであり、いわばルーツは中国語にある。一方の訓読みというのは日本国内で独自に発展したものであり、日本語(和語)といえる。……なので、通常は熟語の読み方というのはルーツ同士の組み合わせ(音・音読みとか訓・訓読み)で表されるのだが、そこから外れるものが重箱読み(音・訓)だったり湯桶読み(訓・音)とされているのだ。

これら重箱・湯桶読みは上記の基本的なルールから外れているということもあり、日本語の規範的な読み方ではないとされているが、一方で現代では十分に定着していることからかことさらに違和感を覚えることは少ない。

さて、こう考えてみると、ゆめタウンの読み方というのは重箱・湯桶読み的な読み方なのではないかと思えてくるのだ。まず、「YOU ME」というのは、英語読み・ローマ字読みどちらも可能である。ただし、日本国内においては(それこそ単語を覚える時でもない限り)既に英語読みがある英単語をわざわざローマ字読みすることは通常ない。それはローマ字表記自体が日本語をアルファベットで表す為のものだからである。そういう意味では、本来これは「ユーミー」が最も自然な読み方であろう。しかし、先に述べた通り、実際には「ユメ」であり、「英語読み+ローマ字読み」になっている。これは漢字の熟語を「中国語読み+和語読み」している重箱読みと実は同じ構造なのではないか、ということである。

先に述べた通り、重箱・湯桶読みというのは現在は慣例上特に問題にならないが、日本語の規範の面から言えば外れた存在である。そりゃそうだ、中国語と日本語のチャンポンなのだから違和感があって当たり前なのだ。そしてそこにある気持ち悪さというものは、きっとゆめタウンに感じる気持ち悪さと同じようなものだったはずである。

そして、重箱・湯桶読みはその特異性故にこうして通常の読みとは独立した特殊な概念として存在している。ならば、それらと同様に「英語二単語以上の語で英語読みとローマ字読みが混在する特異な読み方」のことをここにゆめタウン読み』と定義してもいいのではないかと、そんなことを思うのである。

……問題はゆめタウン以外にそんな変な読み方してる類例があるのかという点なんだけど。

「観光地のカツ丼」問題を考える

行き場のない気持ちを書くというのもブログの一種の使い方だと思っているので、そのようなことについて記す。

 

旅先で何を食べるかというのは、旅先での過ごし方においてとても重要なファクターである。旅というものの本質は日常との心地良い差異の連続であり、食事はそれを強調する手段でもあるからだ。明け透けにいえば「せっかく旅に出たからにはいつもと何か違うモノを食べたい」ということである。「いつも」から逃避する為に旅に出ているのだから、ある意味自然な感情と言えるだろう。

とはいえ、旅先での食事は時に人を悩ませる。その理由が何かと言えば「失敗したくない」からである。

たとえば自分の家の近所にある、まだ入ったことのない定食屋に入るのであれば──もちろんそれですらけっこう勇気のいることだが──話はシンプルだ。当たりだったら通えばいいし、ダメだったら二度とこんなとこに来るかと吐き捨て、実際に行かなければいい。おそらく何度も通うチャンスも無視するチャンスもあるだろうからだ。

旅先ではそうではない。何万円や何時間、あるいは他に諦めた用事といった有形無形のコストをかけてようやくたどり着いたその場所で、もしかしたらもう二度と訪れないかもしれないこの場所で、わざわざマズイ飯を食う必要なんてどこにもない。しかし当然ながら、初めて訪れる場所において店の当たり外れを推察する手段は乏しい。旅は一期一会だが、それだけに一つ一つの出会いの重さがのしかかってくるのである。

……そうした時の助けになるのがガイドブックやレビューの類なのだが、実はこのレビューがさらに悩みを深くするときがある。

たとえばの話をしよう。想像してみてほしい。あなたは海辺の漁師町に来ている。市場は活気に溢れ、潮風に包まれているうちに腹も減ってきた。先程から新鮮な魚介類のことで頭はいっぱいだ。昼飯は魚を食べようと考えているはずだ。当然そうしたお店もたくさんある。

さてどれにしようとササっとネットの口コミを見ると、案外周辺の海鮮をウリにした店の評価は高くない。それは観光客向けの割高な価格設定に一因があるかもしれないが、ともかく味についても並程度だというレビューが並んでいる(実際にこのようなことはよくある)。

そうした中でふと別の店に目を向けると、カツ丼がとても美味しい店がすぐ近くにあるのだという。しかしそこで提供されているのは、たとえば卵とじでなくてソース味だとか、こだわりの何か地元産の素材を使っているだとか、そういう特別さは全くないカツ丼のようだ。要するに「ここに来た甲斐」を本当に何一つくすぐらないのである。しかし地元の人達が本当においしいと評価しているのは、どうやらこちらのようである。

さて、こうしたときにどうしようか。これがつまり「観光地のカツ丼」問題なのである。

別にカツ丼が悪者になるのが忍びなければここに当てはめるのはラーメンでもカレーでも定食でもなんでもいい。要するに地元で似たようなものが食べられる、旅先で食べる必要が全くないようなものが味の面でベストだと提示された時に、それを選ぶべきなのか、それとも旅先であることを考慮して旅先でしか食べられないものを食べるべきなのかと、そういう話である。

これは例えばもっと狭い範囲でも成立する。たとえばある地方のご当地ラーメンを食べに行ったとして、その地域で最も口コミの評価の高い店に行くと、ご当地ラーメンとは無関係な(むしろ都内で流行っているような)凝ったラーメンが出てきたりすることがよくある。もちろん味は美味しいのだが、当初の目的を考えると気持ちは複雑である。なんだかわざわざ遠くに来た意味を自ら否定しているようですらある。

そしてこの「観光地のカツ丼」問題は時に立場が逆転することもある。遠いところから遊びに来る友人に何か地元の食べ物を紹介するときに「この土地らしい」食事と「ノンジャンルで美味しい」食事どちらを紹介すべきか迷ったことのある人も、おそらくいるだろう。

結局、この問題は胃袋か金か時間か、どれかが無限であれば解決する。両方行くという荒技が実のところ一番なのかもしれない(どうしても気になるからまた来る、という選択肢も含めて)。しかし先にも述べた通り、旅というのは一期一会であり、必ず何処かで取捨選択をしなければならない。

そしてここまで長々と書いてきて卑怯なようだが、残念ながら未だにこの問題に対する答えは出ていない。このような選択を強いられたことは何度もあり、どちらの選択肢の経験もあるが、最終的に選んだのがどちらであっても心の端にトゲが引っかかったような気持ちになる。せいぜいそれを誤魔化しながら旅とは人生のようなものだとここで嘯くのが精一杯である。

だから、行き場のない気持ちを書き綴るのもブログの一種の使い方なのだと思い、こうして書き残しているのだろう。