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無名サイトのつづき

mamiya 645AFD+leaf aptus75導入記

かつて「そのうちデジタルバックを使いたいな」という目的でマミヤ645AFDを購入してから 早いものでもう6年近く経過した

こうした目論見自体は古くからあったものの、実際のところ元からタマ数が少ないデジタルバックはそうそう値下がりするものでもなく、スタンドアロンで動くタイプ(液晶画面とバッテリーとメモリーカードスロットがあり、単体で動作する機種。デジタルバックは元々スタジオカメラから発展している為、初期のモデルは液晶もバッテリーもメモリーカードスロットもなく、PCと接続して動かすタイプが多かった)は長らくどのモデルでも最低20万円はするという状況が続いていた。このため手元の645AFDはずっとフィルムオンリーで運用しており、それもしばらく使っていなかったため、フィルムや現像代が上がるたびに売却を考える始末だった。

……そうこうしているうちに中判デジタルの中でもペンタックス645Dなどは中古価格で20万円を切るようになっており、良くも悪くも普通の一眼レフと変わらない使い勝手から魅力的な選択肢になってきた。だが、マミヤのカメラ一式があるというのに、また一からシステムを揃えるという気にもなれなかった為、そちらを購入することもなかった。

とはいえ、流石に5~6年も経つとだんだんデジタルバックの相場も下がってきた。オークション等を見てもこれなら手を出せるかもという案件がちらほら出てきたということもあり、最近になってついにデジタルバックの購入に至ったのである。

というわけで、別にプロでもないが、面白がってデジタルバックに手を出してみようという人向けにいくらか参考になりそうな情報を残せればと思いここでまとめておく。

1.機種選定

前述の通り、今回の話というのはマミヤ645AFDに使用出来るというのが大前提の話である。各自手持ちでデジタルバックに使えるボディがあるなら適宜それに読み替えて欲しい。

とはいえ、懐の寂しい人間には正直マミヤ一択である。この当時のデジタルバック接続が考慮された中判一眼レフはほかにハッセルブラッドHシリーズ(富士フイルムGX645)やコンタックス645などがあるが、いずれもボディも高ければレンズも高い。対するマミヤは至って庶民派のお値段である。

例えばハッセルであればH1やH2、コンタックスなら645が同等のカメラにあたるわけだが、いずれもボディ単体で10万円はくだらない。一方でマミヤであればグッとお手頃になる。

とはいえ、もしこれを読んでいるあなたが安く手軽に「中判の写り」を楽しみたいのであれば、悪いことは言わないのでペンタックス645シリーズにしておいた方がよい。もしくはもう少しお金を出して富士GFXとかハッセルブラッドX系とかその辺。ぶっちゃけ古めのマミヤで揃えるというのは伊達と酔狂の世界である。

というのは、この頃のデジタルバックというのはまだ「フィルムカメラの記録側が撮像素子に変わっただけのもの」に過ぎず、前と後ろで別々のメーカーの製品であり、そこには現代のデジタルカメラのような高速動作や洗練された操作系は存在しないからである。具体的に言うと前後の電源は連動しないので、まず撮影する為にも二カ所の電源を入れ、バックの起動を待ってからでないとシャッターが切れない。それも(aptus75の場合)たっぷり数十秒は待たされるのだ。またリーフの場合、メニューはいちいちタッチペンで呼び出すというPDAのような操作を強いられる。っていうか実際PDAである(後述)。現代のカメラのような軽快さはハナから期待してはいけない。

それでも手元にはマミヤ645があるのでこれを使うわけである。

さて、上記のような事情からボディはマミヤで行くとして、バックの機種はスタンドアロン運用が可能であればなんでもよかった(実質的にはフェーズワンかリーフかの二択)。

スタンドアロン運用が出来ない、液晶もバッテリーもない世代であれば10万円以下でも購入出来るのだが、この場合は制御用のPCが必要だったりでかえって面倒なことになる(リーフで言うとValeoシリーズなど)。というのも、この時代のカメラの接続はだいたいIEEE1394で、現代のノートPCには搭載されていない端子だからである。古いMacBookが必要だったりするので、よほどの物好き以外には正直お勧めできない。デジタルバックの時点で相当な物好きなのだが、その中でもさらに修羅の道だということだ。第一外に持ち出せないのであれば魅力は半減である。

だが、そうした点を解決したスタンドアロンタイプでも本体側が645AFDで動く世代となるといずれもかなり古いモデルになる。具体的にオークション等で10万円台で狙えるのはフェーズワンならPシリーズ、リーフならaptusシリーズあたりである。あるいは両シリーズをマミヤが純正で販売していたDMバックや、マミヤZDバックも狙えるかもしれない。

そんな中で基本的には安く出てきたものを購入したに過ぎないのだが、一応の選定の方針としては「ペンタックス645デジタル系やフジGFX、ハッセルXシリーズが採用している44×33サイズではなくなるべく大きなセンサーのバック」というものがあった。こうしたことから、最終的にはリーフのaptus75を入手した。当然中古であり、それなりにシャッターカウントも進んではいたが可動部があるわけでもない(後述するが多少はある)ので特に問題ないと判断している。

さて、リーフaptus75について簡単に解説すると、2005年に発売されたセンサーサイズ48×36の3,300万画素デジタルバックである。現在はリーフとフェーズワンは同じ会社になっているが、これが発売されたころはそれぞれ独立した企業だった。とはいえ素人が買えるような値段のカメラではないので現役だった当時のことは正直よくわからない。あくまでもこの記事で書いていくのは2020年に素人が使った時の防備録としてである。

なお、古いボディとデジタルバックの組み合わせというのも悪いことばかりではなく、現状各社の最新モデルではすでに不可能になっているフィルムとデジタルバックのハイブリッド運用が可能だったりする。未だに冷凍庫にはいくらか120フィルムが余っているし、フィルムであれば645フルサイズでレンズが使用出来ることもいくらかメリットと考えてよいだろう。

最後に重要なこと。マミヤはレンズが安い。それはもう圧倒的に。タマ数は少ないが初期のレンズであればヤフオク等で3万円程度で買えるものも多いのである(45mm F2.8/55mm F2.8/80mm F2.8/150mm F3.5/210mm F4/55-110mm F4.5/105-210mm F4.5など)。これらのレンズを数本揃えればもう立派な中判システムの完成である。また測光等は効かないが、MF時代の645レンズも取り付けることは可能で、デジタルだからこそこちらを使うという手もある。こっちは更に捨て値で、モノにもよるが数千円で買えるレンズすら存在する。標準・広角・望遠の三本を揃えてもうまくいけば10万以内が十分狙えるシステムなのだ。

これをハッセルブラッドHやコンタックス645でやったらおそらく100万円あっても足りないだろう。もちろんマミヤ用でも、セコール・シュナイダー銘以降のレンズやフェーズワン仕様のものであればそれら他ブランドに勝るとも劣らないほど高価になるだが……。

あとレンズに関して言えば、初期のレンズはシグマで言うZEN仕上げのものが多く、べとつきが発生するので拭き取り済みか、最初からゴム質塗装のされていない後期生産のモデルを買うと良いだろう。ただこのおかげでオークション等では捨て値で出てくることもあるので要注意だ。

2.運用上の注意(設定編)

さて、ここからは具体的にマミヤ645AFD+リーフaptus75での運用について述べていこう。といってもまだ手に入れたばかりなので、たいしたことはしていない。今回手に入れたセットには純正現像ソフトのLeaf Capture(ないし後継となるCaptureOne)は含まれていなかったが、テザー撮影をしないのであればさほど問題はない。現像自体はAdobe Lightroomでも可能である。※どうやらLeaf Captureはまだダウンロード出来るようだ。

この世代はライブビューが出来ないが、それほど問題にはなっていない。あるに越したことはないがおそらくバッテリーも食うだろうから我慢できる範囲である。ただ、今更専用ファインダースクリーンは入手出来ず、カンでのフレーミングを要求されるのでそういう意味ではライブビューがあればありがたいのは確かだ。

メディアはCFカードであり、手元のサンディスク Extreme64GB等は問題なく使用出来た。ただ、サンワサプライのSD-CF変換にレキサーの256GB SDXCカードを挿入しても使えなかったので、CFがあるならそちらを使った方が無難だろう。

さすがに2005年のカメラなので、内蔵電池が消耗して日付が飛んだりずれたりするトラブルがあったが、幸いにしてこのカメラはDIYで直した方の記事が存在するので、同様の手順で電池を交換してみた。

 

偉大なる先人の記事はこちら(あちらはこのモデルの一世代後の75S)

ameblo.jp

 

さて、構造的には全くといって良いほど同じだったので、詳細な手順は先の記事に譲るとして、せっかくなので中の基板の写真を何枚か上げておく。あんまりこういうカメラの分解も多くはないようなので。
※当日Twitterに上げながらバラしていたので写真が雑なのは申し訳ない。

 

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このカメラ、箱形の筐体に収めるために同形状の基板がスペーサーを挟んで何層かに分かれており、大まかに言ってセンサー側にFPGA基板(このカメラではアルテラのFPGAが使われているようだった)が乗っかっている。先のリンク先にある75sではメモリはBGAだが、一世代古い75では懐かしのTSOPパッケージである。

基板には「DCB6」というシルク印刷が入っており、実際このカメラはだいたい6世代目にあたる。おそらくDigital Camera Back 6thとかの頭文字であろう。


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衝撃的なのが、このカメラPowerPCが積んである。当初はこれがメインのプロセッサで、FPGAで前処理→PPCで後処理という流れかとも思ったが、もしかしたらこれがOSを動かしているのかもしれない。

ミルビューのような統合チップのない頃の製品や、特殊なアーキテクチャの製品だとFPGA+汎用CPUという構成のカメラは意外にあるみたいなので、おそらくこれもそれに準じているのではないかと思われる。

※例:PPCRISC CPUが入っているkodak SLR 14nやザイリンクスのFPGA+ミルビューカスタムの構成を取っているとされるシグマのfoveon機など。要はツインCPUなわけで、そりゃこれらのカメラの電池持ちが悪いのも納得である。

 

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で、三枚ほど基盤を引っぺがすとようやく電池交換が出来る。電池はCR1220。100円ショップにも売っている。

ちなみにこのカメラ、制御部分はWindows CEのようなのでコアシールが本体に貼ってある。この頃のWindows CE自体はArm版もPPC版もあったので、実際どの基板がOSを動かしているのかはちょっと判別が付かなかった。この電池入りの基板の下にいる基板にはMarvelのマークの入ったチップがあるので、これがArm入りでOS担当なのではないかとも思ったが、シールを剥がす必要があったのでチップの刻印は確かめてはいない。無線搭載なのでネットワーク関係のチップかもしれない。


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なお写真右側に鎮座しているのは空冷ファンである。中身を見るまでは「カメラに空冷ファンかよ……」と思っていたが、このCPU密度(少なくともPPCFPGAがある)を見るとむしろこれで冷やし切れているのか心配になった。

 

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ちなみに元から入っていた電池はスイスメイドであった。スイスの電池って初めて見たわ。

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なおセンサー面はこのようにステッパーの分割露光らしき痕跡がはっきりと見える。6回に分割して露光しているようなので、当然コストが高い部品だろうことは想像がつく。そりゃ新品の頃には数百万とかするワケである。

3.運用上の注意(実用編)

さて、このようなカメラなので当然電池の持ちは良くない……のかと思ったら、意外に健闘してくれた。具体的には、購入時には純正で標準サイズの電池が二個付属していたのだが、これらを使って撮り歩きに出たところ、最終的には電池二個をフルに使い切って450枚ほど撮影することが出来た。14nなどの劣悪な電池持ちの機種からすれば望外の結果である。

とはいえ、実のところ当初はこのカメラの電池持ちに一切期待していなかったので試し撮りよりも先に大容量バッテリーを手配していた。互換品は国内にはすでに流通しておらず、中国から取り寄せたので時間がかかってしまったが、下記の写真がそれである。

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手前側の電池が標準電池。圧倒的な大容量である。もちろんガタイもデカくて重たいのだが……。


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この電池、見た目はソニーのNPシリーズのカマボコ電池っぽいが、実のところサムスンのビデオカメラ用電池であるSB-Lxxxと互換性がある。このため中国の通販でこの辺の互換電池を探したところなんとか手に入れることが出来た。同様に充電器等も大陸の方であればまだまだ互換品が見つかるようだ。

リーフの場合、この電池がデジタルバックの下部に刺さるので電池がでかいと重量バランスは劣悪そのものなのだが、そうは言っても大容量バッテリーの安心感は大きい。

なお、先の450枚ほど撮った際は最短でスリープに入るようにしていたり、こまめに電源を切るよう心がけたりはしていたが、このカメラ起動がとても遅い(撮影枚数がかさむと体感で1分くらいは平気でかかる)ので、ある程度電池が持つとわかった今はむしろスリープ主体の運用の方がいいのかもと思い始めている。

あと注意する点と言えば、マミヤ645AFDはメーカーとして公式にデジタルバックとの通信が考慮され始めた最も初期のカメラだということである。というわけでたまに通信がロストしてシャッターが落ちなくなったりすることもある。またカメラボディ側にも単三電池六本を要求するので、そういう意味での電池の管理もややシビアだとも言える。といっても古いデジカメを使ってることを思えば許容範囲の出来事である。

もちろんこれ以降のボディ(645DF等)ではそういった通信は洗練されていくようなのだが、実はこれに伴ってフィルムバックでの撮影機能は省かれている。つまり、先に述べたようなデジタルとフィルムのハイブリッド運用という意味ではわざわざこの世代を選ぶ意味があると言えるのだ。そしてそういう虚勢を張らずとも、もし最新世代で揃えるとなれば軽く10倍以上の投資が必要となるのだから、現実的にはここらが2020年現在実用出来る中で最も安いラインだと言えるだろう。

というわけで、ここまでやれば万全と言える。あとは持ち出すのみなのだが、さすがに気軽に持ち出すというところからは遠く離れたところにいるカメラなのもまた間違いのないところである。

4.作例

というわけで、試し撮り時の作例などを。使用感については起動は遅いし、感度は上げられないしで現代的デジタルカメラを期待してはいけない。あくまでもフィルムの中判の感覚で付き合ったほうがいいのではないかと思っている。

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AF210mm F4 ULD

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AF210mm F4 ULD

L_000579

AF80mm F2.8

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AF45mm F2.8

L_000317

AF210mm F4 ULD

結論を述べると、実際のところデジタルバックはアマチュアにとって高くて使いづらいカメラなのは間違いない。(比較的安価な)マミヤ用で、型落ちだからたまたま手が届いてるだけに過ぎないのも紛れもない事実である。とはいえ、手が届くのであれば使ってみたくなるのは自然なことだし、そうであれば、この記事がそうなったときの一助になればと願っている。

Googleのサービスを使う上でChromeよりもIEのが良い場合があるという話

初めに言っておくと、ブラウザは現在はVivaldi派である。

まだ広告が付いてた頃からのOperaユーザーだったのだが、なんだかんだでレンダリングエンジンが変わったり資本が変わったりしてOperaはあかんなという感じになったのでVivaldiに乗り換えてだいぶ経つ。とはいえ今回それは本論ではない。

話は変わり、ここ数年は趣味として文ばっかりの同人誌を書いているのだが、原稿はだいたいGoogleドキュメントで執筆している。理由はといえばほぼ常時上書き保存が行われるという安心感が一つと、モバイルデバイスから編集が出来るので最悪原稿が間に合わない場合に通勤時間に校正や書き足しが出来るという部分からである。

当初はテキストエディタを使ってローカルに保存していたのだがこれはモバイルからの参照性に劣るし、同人誌の原稿となると注釈を書き込んでおきたくなる場合も多く、かといってワープロソフトを買うほどではない(今考えると文字数を考えればワープロ買っても元取れるくらいは使っているのだが)と思いGoogleドキュメントに落ち着いた。

しかしGoogleドキュメントには執筆する上で致命的なバグ的挙動があり、以前から不満を持っていた。そしてこの度一念発起して解決作がないかどうかを調べた結果、タイトル通りの結論に至ったというわけである。

以下、具体的に何が起きているのかの説明。

一般的に、日本語入力ソフトは文節で区切って変換する。何故なら、どういう区切り方をするかによって変換結果が意図しないものになる可能性があるからである。これは日本語かな漢字変換が生まれた当初からある問題だし、未だ完全に解決もされていないと言って良いだろう。当然、同人誌の原稿を書く場合も無数の変換作業を行っている。

で、通常こういった変換というのは「何処で文節が区切れているのか」がわかるような表示がなされる。つまり、下記のような状態である。
(以下Windows10+ATOK定額版Ver.31 Vivaldi2.5及びGoogle Chrome81にて表示)

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Google検索(Vivaldi)

こういう表示になるからこそ、我々は自然に文節を動かして「いとうで/いちばん」にしないと意図した変換結果が得られないと判断しているのである。これはもう当たり前の機能であり日本語変換の本当のコアの部分であると言って良いだろう。

で、この表示はサイトやブラウザによっても多少変化するようだが、だいたい似たような挙動を示す。

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Twitter(Vivaldi)

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はてなダイアリー編集画面(Google Chrome)

多少見た目は変わるが、何処で文節が区切れているかが分かることこそ、文節を区切って変換する日本語かな漢字変換には必須なのである。とまぁそういう話をした上で、Googleドキュメントでの表示を示す。こうなる。

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Googleドキュメント(Google Chrome)

ふざけんな。

思わず往年のテキスト弄り系サイトみたいな真似をしてしまったが、要するにこれが「致命的なバグ的挙動」なのである。GoogleドキュメントはGoogle Chrome(及びVivaldiなどのChromiumを採用したブラウザ)では文節区切り線が表示されないため、日本語変換が著しく困難なのである。

しかもこの表示、少なくともこちらの環境では数年前に導入した当初からこうなっている。執筆環境をGoogleドキュメントに移した初期からずっとこの不満があったことを覚えているからだ(前述の利便性もあるので我慢して使っている)。

仕方ないので「この誤変換結果はたぶんこの辺で文節が区切れているのだろう」という心眼でもってカーソルを叩いたりスペースを叩いたりしながら無理矢理執筆してるのだが、よく考えなくてもこれは効率が悪い以前の話だし、むしろよくそんな環境でこれまで書いてきたなと思っている。

ちなみにATOK以外にMSIMEやGoogle日本語入力でも同様の挙動なので、IME(FEP)側の問題ではない。

で、この挙動はどうやらGoogle Chromeのコミュニティにも似たような症状が報告されているようなのだが、困ったことに何年も前から話題に出ていながら、解決している様子が見られない。

support.google.com

support.google.com

この問題、何が腹立つって当方の環境下ではGoogleドキュメント以外では上記スクリーンショットに示した通り正常に動くのである。なので、上記の通りGoogle Chromeのコミュニティで話題になっているものの、本来直すべきはGoogleドキュメント側であるような気がしてならない(実際、少なくとも当方ではGoogleのテキストボックスやTwitterはてなダイアリー編集画面でこの症状は出ていないのだし。

で、まさかと思ってIE(Ver.11)で表示したら正常なのである。表示はいかにも昔のワープロソフトのようでなんとも古くさいが、しかし文節が見えるということの方がよほど大切であろう。というわけで、なんかこう納得出来ないものの、とりあえずIEで使うことがこれらの対策と言えるだろう。

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Microsoft Internet Explorer

しかしこの見た目、ATOKなのに昔のMSIMEみたいでなんかこう落ち着かない。

ちなみにChromiumベースになった世代のEdge(Ver.44)ではGoogle ChromeVivaldiと同じ挙動なので、レンダリングエンジンがChromiumな限りは発生しているものと思われる(このためにFirefoxSafariを入れる気力はなかったので未検証)。

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Microsoft Edge

まさかの「Googleのサービスを使うためにGoogleのブラウザを使うと使い勝手が悪い」という現象を目の当たりにしていて、正直とても居心地が悪い感じなのは確かである。あと報告されてるのに直ってないという辺りも。

そしてその気持ちは、このブログ記事を書くためにEdgeで検証してる最中に最高潮に達した。

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ねぇそれ今言う???

 

---4/25 22:00追記---
上記のような理由により、当面IEで執筆すればいいかと思ってたのだが、Chromiumでは発生しない別の不具合が発見された。当方の環境はhpの5kディスプレイを使用しており、ネイティブ5k解像度だとやや目に厳しいため、Windows側でスケーリングを125%にしている。web閲覧にはこれでもよいのだが、執筆作業は閲覧ほどの一覧性が不要でむしろ見やすさ重視ということで、Googleドキュメントのスケーリング機能でさらに125%表示にして使用している。

で、IEGoogleドキュメントをスケーリングすると下図のようになる。

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IE 125%スケーリング表示

変換中の文字が一回り小さいことがお分かりだろうか。そう、「確定後の本文」はスケーリングされ「変換中及び変換直後の本文」はスケーリングされないのだ(確定後ワンテンポ置いてスケーリングが反映される)。あまりにも格好が悪いし、だいたいやりづらい。そういうわけでIEを使うというのもナシということになった。

スケーリング表示で編集している方がわりとレアケースだとは思うが、しかしそうはいっても実際にそうやっている方にとっては大問題である。結局今手元にあるブラウザで快適に執筆出来るものは存在しないということになってしまったという……。

チラシの表

「インターネットはチラシの裏

これまでにもよく言われてきた言葉である。そこには自由があったからだ。

少なくともある一時期、インターネットがフリーハンドで何でも書ける真っ新なキャンバスであったのは誰もが認めるところであろう。そしてこの言葉の裏には、素人が不正確な情報や悪意をも発信出来る無法地帯であり無価値であるという既存メディア側からの侮蔑の意味も込められていた。

故にチラシの裏という言葉はインターネットユーザーの側が発する場合は半ば自嘲気味ではあるがその実プライドを込めて、対する既存メディア側は批判的に、対立する両者によって異なる文脈で用いられてきた。

実際に2020年現在を考えてみればこうした無法地帯という認識は実は誤りであって、ある程度のクオリティを求められた結果、どんどんユーザージェネレイティッドのコンテンツは減っていき、インターネット上にもプロが仕事として行った、ある程度のクオリティを担保された記事で溢れるようになった。つまりインターネット側も既存メディアに寄っていったのだ。

もちろんかつての自由度も未だに残ってはいるのだが、全体としてはインターネットの「自由さ」「素人目線」みたいなものはずいぶん減ってしまい、各個々人レベルでの情報発信活動はSNSに押し込められてしまったように思える。

また、チラシの裏という言葉の更に下の存在として便所の落書きという言葉もあり、これは特定の匿名掲示板を指した言葉であったように思えるが、この匿名掲示板という文化もこれらの言葉が使われだした頃から考えると勢いはだいぶ落ち着いてしまったと感じる。

さて、ご存じのようにインターネットは基本無料というモデルが長いこと成立してきた。大手のサイトはその集客により広告を集めて運営していたし、個人がwebサイトを開設する際も広告付きという条件で無料でスペースを借りて始めるのが一般的であった。この基本無料で自分の情報を発信出来るというシステムは画期的なもので、00年代初頭の今となっては懐かしい個人サイトのブームもこれがなくては成立しなかったことだろう。

かくいうこのサイトもはてなブログというシステム上で更新されており、PRO(有料)契約をしていないので作る側としてこのスペースを維持することに費用はかかっていない。また見る側の立場でも特に費用を必要としてはいないはずである。最近はnoteとかそういうでチラ見せ有料商法というか、まぁ個人発信でも金払わないと読めない見れないみたいなのが出てるが、基本無料が骨の髄まで染み渡ってるネットユーザーとしてはネット上でああなってると萎えるというのが正直なところである。もちろんああやってでもマネタイズする必要が出てきたということは理解しており、それはまた新たなネットの歪みでもあるのだが、とりあえず今回についてはそこは本論ではない。

ともかく、このサイトを始めとしたインターネットのほとんどは書く側にも読む側にも金銭的負担がなく基本無料ということになっており、その根底を支えるのは広告だということも誰もがなんとなく認識している。無料ということは誰かが代わりにコストを負担しているということになるし、その誰かというのがつまり広告(広告主)なのである。つまり、ある意味ではユーザーは広告に生かされているということになる。

しかし、不思議なことにネットユーザーは基本広告というものが嫌いである。インターネットというものを動作させている根底のシステムの一つにも関わらず、広告なんてなくなればいいというのは一種の共通認識であるし、webサービスを行う側にも「有料プランは広告が入らない」ということをウリにしている。一般的に煩わしくて消えてほしいものと誰もが思っている(そしてそれを消し去ることに価値が生まれる)とされているのだ。

考えてみれば確かにインターネット上の広告というのは度を越したものがたくさんあった。古くは無限ポップアップと呼ばれるバナーが多数起動して当時潤沢とは言えなかったメモリを食い潰してしまうものが存在したし、例えば往年のエロサイトは20個入り口のリンクがあったらそのうち19個は別サイトの広告リンクというものであった。今みたいに検索して即エロ動画が見れるようになるまでには凄まじいまでの戦いがあったのだ。知らんけど(この辺の話を知ってる人ならQ2という文字はトラウマであろう)。

最近でも大画面化するスマホをあざ笑うかのようにスマホ向けサイトの広告バナー面積も増加しており、あげく誤タッチを誘発するような動作をするものもあって数々のユーザーを苛つかせている。動画サイトに関しても、最初の数秒はスキップボタンが押せない30秒広告のスキップをようやく押せたと思ったら続けて5秒広告が始まってげんなりした人は多いのではないだろうか。エロサイトの話は流石に性質が違うにしても、ふつうのインターネットでさえも、我々は広告なしには閲覧することが出来ないのだ。

もちろん、これは既存メディアであっても似たようなものではある。テレビはインターネット同様地上波民放の場合基本無料であるが、これらはCMという広告によって成立している。TVで映画が放送されることもあるが、CMや編集が嫌ならパッケージソフトに課金しろというのは広く受け入れられている。雑誌等にしても同様である。

故に既存メディアではスポンサーに逆らえない空気が存在するとも言われているが、これは広告に直接生かされている側としては至って当たり前のことであろ。一方のインターネットは、広告に生かされているとは言っても(webサイトやサービスを介した)間接的なものであるし、ユーザーは作り手であると同時に受け手でもあるので基本的には広告はウザったいものであるという認識が共有されやすかったのではないかと思われる。

また、インターネットでの特殊事情としては、かつて起きた様々な事件により広告だけでなくこうした広告を司る広告代理店もインターネットユーザーの敵となったことが挙げられる。特に広告代理店については「基本無料のインターネットで生まれたもので金儲けをする悪い奴ら」というイメージが一部には確実に根付いてしまった。基本無料の世界で生まれた共有財産で自分たちだけ金儲けをするという行為がインターネットユーザーの逆鱗に触れたのである。

そもそもインターネットは既存メディアに対するカウンターメディアとしての意味合いもあり、そういう意味では既存メディアというのは広告代理店に支配されているもの(と一部では信じられている)であり、言わば広告代理店というのは敵の親玉であった。広告や広告代理店アレルギーとも言えるような拒絶ぶりについては、せめてインターネットは既存広告代理店には支配されたくないという意識もあったのではないかと思われる。

かくして、インターネットユーザーにとって広告と広告代理店は不倶戴天の敵となった。

しかし、どんなにインターネットユーザーが広告やそれに関係した広告代理店を嫌おうと、インターネットの基本無料を支えているのが広告にあるというのは先に述べた通り、好むと好まざるとは別としても事実である。そういう意味ではインターネットユーザーの広告や広告代理店アレルギーというのは常に矛盾を抱えており、アンビバレントなものなのだ。

そしてここで冒頭の「チラシの裏」という言葉が案外的を射ていたことにも気付くのだ。インターネットは紛れもないチラシの裏である──もはやそこは広告という「チラシの表」がなければ存在出来ない──しかしその裏は真っ白で、自由なキャンバスでもあるのだ。広告や広告代理店は大嫌いだとしても。

 

ゲーム性の変質

冬コミの原稿が終わったので、コミケ前後は(外出するには体調が思わしくなかったこともあり)ずっと家でゲームをしていた。タイトルは原稿中からずっと気になっていたDEATH STRANDINGである。

このゲームについてはその成り立ちからしていくらでも書きようがあるし、実際賛否含めてそうした外野の感想も含めてかなり盛り上がっているタイトルの一つであることは間違いない。まだクリアはしていないが、とりあえずある程度のところまでは進めた。そしてある程度までのところまで進めて、以降しばらく手に付いていない。

手に付いていない理由は主に仕事が始まったからなのだが、それ以外にも自分の中でプレーの手を止めてしまった理由が一つある。

それは、ある章からのゲーム性の変質である。

詳しくはネタバレになってしまうし、また先に述べた通り未だクリアもしていないのだが、このゲームではとある章をクリアしたところで、これまでとは異なる内容に切り替わり、同時にこれまでとは種類の異なる立ち回りを要求されるようになる。ここまでに積み上げてきたノウハウが全部とは言わずとも一部はリセットされてしまうのだ。そして実際にそこで少しゲームオーバーを繰り返したので、少し心が離れてしまった。なので多少触る時間はあったにも関わらずしばらくプレーしていない……というのが現状である。

まぁ、DEATH STRANDING自体は面白いし先も気になるので、おそらくはこの挫折についてもじきに克服して、再びゲームをするんだろうなというのはなんとなく感じている。だが、思えばゲームにおいてこういう「突然のゲーム性の変質」とそれに伴う挫折みたいなものは何度か経験してきた。せっかくなので、ここではその中で印象深いものを二つほど挙げてみようと思う。

まず、こうした「ゲーム性の変質」を最初に意識してしまったゲームは、PS2で発売された元気のKAIDO -峠の伝説-というレースゲームであった。これは当時の同社の看板シリーズであった首都高バトルと対をなす作品であり、首都高バトルの首都高(最高速)文化に対する峠(ドリフト)文化のゲーム化といった流れの作品であった(シリーズ作としてこれ以前に街道バトルという作品があり、その中の最終作にあたる)。

さて、このゲームにおける「ゲーム性の変質」とは何だったのか、それはゲームを進めるごとに明らかになる「グラベル(未舗装路)指向」である。当時はWRCを日本に誘致しラリージャパンが実現していた時期だったこともあり、峠とラリーというのは延長線上にあるというか、比較的親和性の高いモノだと考えられていたのである。

……しかし、そうは言っても、このゲームを買う層というのは現実と見まがうばかりにリアルに再現された各地の峠道を、華麗なドリフトで駆け抜けるというのを求めていた筈である。

実際、途中まではそういうゲームなのだが、いつしか「工事中」というテイでコースの特定区間が突然グラベルになりはじめ、段々「峠道を華麗なドリフトで駆け抜けるゲーム」から「突然の未舗装路に怯えながらおっかなびっくり走るゲーム」へと変質していく。そもそも現実の峠では突然グラベルになったりしない。ゲームにしても話がおかしい。

そうこうしているうちに最終ステージである北海道ではほぼ全面グラベルになってしまい、ついでに峠でもなくなりこの違和感は頂点に達することになる。「峠道でドリフトするゲーム」を買ったつもりが、いつの間にか「ダートを走るゲーム」になってしまったのである。もちろんパッケージを見る限りではこのゲームは「峠道でドリフトをするゲーム」にしか見えないのであるが。

結局、疑問符がいくつも頭に浮かびながらも乗りかかった船とばかりにゲーム自体はクリアしたのだが、グラベルでのコントロールはそれまでの舗装路とは若干異なるスキルを求められることや、最終ステージで上昇する難易度も相まって「俺はこんなことをするためにこのゲームを買ったんだろうか……」という問いがエンディングまで消えることはなかった。それどころか、10年以上経ってもこんな文章を書く程度には心の片隅に引っかかり続けているのである。

そして、これが原因なのかどうかはわからないが、街道バトルというシリーズはこの作品を最後に製作されていない(首都高バトルはもう少し生き長らえたのだが、こちらも現在では……)。

とはいえ、これはゲーム性の変質に首をかしげながらも最後までプレーした作品である。しかし、ゲーム性の変質によってまったく興味を失ってしまったこともある。こちらの例として、Ingressを挙げることにしよう。

このゲームはいわゆるスマートフォンの位置情報を利用する「位置ゲー」の一つであり、今となってはPokemon GOの前身的な捉え方をされているゲームでもある(開発元が同じ)。

主なゲーム内容としては二陣営(二色)に分かれた陣取りゲームで、各地に存在するチェックポイントにスマートフォンを持って訪れることでチェックインが可能になっている。このチェックポイントを自陣営の色で埋め、更に自陣営同士のチェックポイント間を繋ぐことで、その自陣営のチェックポイントで囲まれた範囲は自陣営の色に塗りつぶすことが出来る。この塗りつぶされた部分が自陣営の陣地ということになる。

もちろんチェックポイントを他陣営が占拠している場合もあり、その場合はチェックポイントに対して攻撃を仕掛けて色を塗り替えることも可能になっている。こうして他陣営に占拠されたチェックポイントを自陣営側に取り返したり、あるいはより広範囲のチェックポイントを繋いで塗りつぶすことで無効化したの繰り返しによって、相手よりもより多くの陣地を取ることが目標のゲームである。

さて、このゲーム(Pokemon GO以前の話になるが)日本国内でも結構な話題になった。元々はGoogleが開発していたということもあり、全世界がエリアという壮大さと、リアルイベントの存在なども相まって散歩ついでに始めたらハマったという人が結構な数存在していたのである。例えば、PC Watch上でライターの後藤氏によって三回にわたって(!)書かれたIngress入門記などが代表的なものだろう。

pc.watch.impress.co.jp

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実際にこうした記事や、また既に始めていて面白いという評判も聞いていたのでこの記事と前後して一時期はけっこうな頻度でIngressをプレーしていた。ハマってる時期にはそれこそ毎日寄り道したり、旅行中だというのにチェックポイントを探しては同行者に呆れられたりしていたのである。しかし、現在では全くプレーしていない。その理由もまた「ゲーム性の変質」である。

このゲーム、位置情報ゲームでありながら、いわゆる当時のソーシャルゲームとは異なる流れで開発されていたこともあり、ソーシャル要素というのはパッと見控えめになっていた。実際にやれることのほとんどはプレーヤー一人で完結するものであり、ゲームのソーシャル要素が好きではない者にとっても取っつきやすいゲームになっていたのである。

しかし、これはある一定のレベルまでの話で、一人で到達出来るあるレベルまで行くと、更なるレベルアップには途端にソーシャル要素が必須となってしまう。というのも、高レベルのアイテムは高レベルのチェックポイントからしかドロップせず、またこのゲームでチェックポイントのレベルを高める為には、同じチェックポイントに高レベルのプレーヤーが多数チェックインする必要があるからである。

そして、こうしたチェックポイントは常に他陣営からの攻撃に晒されるため、最も効率が良い方法は「リアルに一度にたくさんの高レベルプレーヤーが集まって、一緒にプレーする」ということになる。そうすれば他陣営の攻撃を受ける前に高レベルチェックポイントの恩恵にあずかることが出来るし、他陣営を攻撃する場合も高レベルプレーヤーの火力が集中すればそれだけ効率がいいからである。これは一人だけでプレーをしていては受けられない恩恵ということになる。

つまり、そもそものゲームデザイン的に高レベルになるほどソーシャル的に集まって協力プレーをするほうが効率が良い──というか、協力プレーを強制される──システムになっているのだ。そしてこの協力プレーに背を向けると、高レベルチェックポイントの恩恵を受けられなくなるため、時にはゲームを進行する為のアイテム入手すらおぼつかなくなってしまう(それでも都会なら野良プレーの余地もあるが、田舎だとそもそもプレーヤーもチェックポイントも少ないため尚更深刻)。

しかし、それまで「一人でもそれなりに遊べるゲーム」としてプレーしていたユーザーは、おそらくこのゲーム性の変質には耐えきれない。あるレベルを境にまったく別のゲームになってしまったと感じるだろうし「一人でも出来る」ことに魅力を感じていたのであれば裏切られたような感覚すら覚える筈である。

というわけで、こうしたゲーム性の変質に絶望し、あるレベルに到達して以降はパッタリ起動しなくなってしまった。かつてはあれほどハマっていたのに、である。

こういうゲーム性の変質というのは、その程度を問わずそこかしこに存在する。同じゲームの中でも見た目や手触りが変わるだけのケース(DEATH STRANDINGやKAIDOはこのケースだろう)の他にも、Ingressに挙げたような、見た目は全く同じなのにやるべきことがまるっきり変わってしまうというケースもある。そのどちらにも楽しみを感じることが出来ればゲームプレーは続いていくが、一方でそこに躓いてしまえばそこで終わり……というわけである。

とはいえ、ゲーム体験というのはプレーヤーの想像を超えたり、心地よく裏切るようなことの繰り返しで構成されていることも確かなので、こうした変質もまた乗り越えてこその体験であるとも言える。

この辺りのバランス感覚はおそらくは難しいし、それも含めてのゲームと言ってしまえばそれまでなのだが、それでもこの変質によってモヤモヤした気持ちが残ったり、時にはゲームを止めてしまうということもまた確かなのだ。