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無名サイトのつづき

見分けるカギはどこにある

昔から不思議に思っていることの一つに、二次元キャラクターの違いや、それらの二次創作においての違いというものは一体どうやって認識されているのだろうかというものがある。

どういうことかというと、キャッチーな記号の組み合わせで作り出された二次元キャラにおいては、それらの持つ特徴点が被ることがよく発生するのだ。例えば「赤いリボンで金髪で髪型はロングで……」といった特徴点を次々に挙げていってもそれに該当するキャラは多数いるため、人によって思い付くキャラが異なったりするのである。

とはいえ、特定の作品に登場するキャラであれば、元になる絵……いわゆる原作絵が存在するので作者のタッチによって見た目は明らかに区別される。「赤いリボンで金髪で髪型はロングで」あっても、歳納京子と星宮いちごは明確に区別されるのである。無論、ほかの赤リボン金髪ロングキャラであっても同様に。
つまり、人は特徴点が同じキャラであってもその二つを見比べ、例えばタッチが異なるなどの理由から、それらは明らかに別のモノであると認識出来るのである。
しかし、この区別というものは時に揺らいでいくことがある。
昔からキャラの書き分けが出来ない絵師や漫画家を指してハンコ絵(判で押したように同じ顔が並ぶ)といった悪口は存在したが、例えば特定の漫画家の前後作において、ほとんど髪型のみで区別されている別キャラクターが存在することがある。
例えば、このキャラが物語の進行上の都合で普段とは異なる髪型になるとしよう。
もちろんそれは流れとしてはAという作品の中で行われることなので、そこに登場するのは紛れもないAに登場するキャラであり、その作者の前作Bに登場するキャラとは異なるということは容易にわかる。
だがその一方で、そのコマだけを切り出された場合に、そこに書かれたキャラがAに登場するキャラの髪型違いなのか、それともBに登場するキャラの髪型違いなのか、それを初見で判断するのは難しいのではないだろうか。
こうした問いの極端な例がネットミーム的になっている「あだち充先生作品ヒロインリスト」である。あれは元から見分けが付かないがとにかくにも、最大の特徴点が崩れ、補足する文脈も失われた時に、人はいったい何をもってどのキャラクターと判断するのだろうかという問いが生まれるのである。
これは例えば、現在ソーシャルゲーム等で隆盛を誇っている擬人化キャラなどにも当てはまる。デフォルト衣装においてはその元ネタのデザインを大変上手に取り込んだ、ある意味わかりやすいデザインであったとしても、そのキャラクターがイベント等で別衣装になった時に、元ネタとの関連性が断ち切られることがある(例:艦これの三越コラボ時の画像等)。もちろん見る側としては通常衣装が念頭にあってのことなので問題にもならないのだが、よく考えると当初のアイデンティティが消失しているも同然の状態である。
そしてこれらの混乱は二次創作になると更に顕著になる。二次創作においては原作絵に似せるということは必須の要件ではない。むしろ原作の枠組みを使用しながらも、原作絵とは異なる解釈、異なるタッチで描かれた作品の方が現在は主流であるように思える(いわゆるイタコ漫画家的な原作に画風を寄せたパロディももちろん存在しているが)。
すると、ごく希にだが「キャラ名を見る限りおそらく作者本人はAという作品の二次創作として制作しているのだが、絵を見る限りはBという作品が原作に見えてしまう」というややこしい状況が発生する。もちろん明示的にBのタッチでAを描く、みたいなことも行われているが、無意識にそれが起きているケースもあるのだ。
また、二次創作においては基本的には原作は枠組みでしかないので、例えば先のようなオリジナル衣装やオリジナル髪型なんかも発生することがあるが、その許容範囲というようなものが不思議で仕方ないのである。
というのも、ある閾値を超えれば「これって原作とはかけ離れてるしむしろオリキャラじゃん」と感じるポイントが(おそらく)存在するように思えるのだが、しかしその分水嶺が何処なのか、ただ一つのポイントに定められるという気はまったくしない。
原作に忠実・原作に似ている・原作からアレンジされている……そして原作が思い出せないくらい(あるいは別の原作に似てしまっている)まで、各段階多種多様なアレンジがある中で、いったいどこをどのように判断して許容範囲(?)が決まっているのか、よく考えるとまったくわからないことだらけなのだ。
こうした認知の限界点に挑む例としては「浜風のコスプレをしたマシュ」なども存在するが、こうした絵でさえも、最終的にはそれを見てどちらかに判断していることになるのだが、では個々人は一体どのポイントを持ってそれが浜風であったりマシュであったりと判断しているのだろうか。
人間はわからないことだらけである。

価値のバスタブ曲線

一般的には、世の中新しいものの方が価値があるということになっている。

例えば生鮮食品は古くなれば風味が悪くなったり、食べられなくなってしまうので新しいものほど価値があるというのは当然のことだろう。また、そうではない耐久消費財であったとしても経年劣化は発生するし、性能に関しても基本的には技術の進歩によって向上していくものなので、古いものは相対的に価値を減じていくことになる。

価値判断の基準としてはいろいろあると思うが、とりあえずここでは価格を想定している。これもたいていの場合、新製品は高価で、型落ち品はそれに比べて安価である。また基本的には発売日から終売までの間、概ね売価は下がっていく。中古品に関しても概ね同様である。もちろん下がり方の傾きは一定ではないが、これがほとんどの製品が辿る道である。

ということは、何かモノを買ったとしてそれが最も価値を持つのは買った瞬間であって、あとはそこから劣化していき段々下がっていくということになる。少なくとも売却価格については概ねそのようになっているし、減価償却制度なんかもそうした価値の劣化を前提としている。

つまり、仮に価値のグラフを書くとすれば年数が経過すると価値は共に右肩下がりで下がっていきゼロに近づいていくということになる。

なので、たいていの人はゼロになる前に適当なところで(買値よりは安い価格で)手放して買い直すか、あるいは売値としてはゼロでも用は足りるとしてそのまま使い続けるかを選択しているわけだ。

ところで、減価償却においては「時間が経っても劣化しない骨董品」は対象外とされている。骨董品はもはや古くなることによる価値の劣化とは別の次元にあり、それどころか古ければ古いほど価値が上がる可能性すらあるということで、そういう意味では対象外になるのも頷ける。

さて、事業者であれば減価償却対象になるような耐久消費財であっても、ある程度年数を経過すると今度は骨董品的な価値を持つことがある。また減価償却対象ではないにしても、ある製品が年月を経過した結果かえって手に入らなくなってしまい価格が上がることはよくある。

つまり、新品をスタートとして下がり続けた価値は、しばらくの間底を這い続けるのだが、どこかで反転して再度上を向くわけである。

例えば自動車であれば、ある年数までは単なる中古車扱いだが、残存数が少なくなってくるとネオクラシックと呼ばれ始め、最終的にはクラシックカー的価値を持つ車となる。2020年現在においては80~90年代の人気のある車が高騰しつつあり、逆に言えば70年代以前の車は車種としての人気云々を抜きにしてもすでに現存しているだけで立派なクラシックカー扱いとなっている。

また、新品時に安価かつ非常にたくさん製造されたものが、新品時に少数かつ高価だったものより残りづらく、かえって高くなったりすることもある。例えばある種の雑誌などは発行部数から言えば単行本よりも遙かに多いはずなのだが、残すようなものではないと思われていた結果現存数が非常に少なかったりする。一方で少数かつ高価なものは案外「これは高価なものだから残さなければいけない」という気持ちが働くのか、後世に残る割合は多めである。

例えばカメラで言うとライカなんかは後者の代表であろう。非常に高価で価値のあるものだから、仮に壊れれば(多少の負担を受け入れてでも)直すし、仮に手放す際もキチンと値段が付き、次のオーナーに受け継がれていく。一方でそうでない無名メーカーのそれは、壊れても直すほどの価値を感じなかったり、あるいは完動品であっても次のオーナーも見つからず、ゴミとして処分されたりする。

とはいえ、不運にもゴミとして処分されるライカもあれば、偶然眠り続ける無名メーカーのそれもきっとある。全体としてはどちらも年数を経るごとに現存数は段々ゼロに近づいていき、珍しいものになっていく。そうなれば「レアモノ」としての価値はますます増加することになる。

ところで、製品の故障率を示すグラフとしてバスタブ曲線というものがある。これは初期不良といった使用初期の故障率が高く、ある程度それが収まると低い故障率で安定し、やがてそれ自体の損耗によって再び故障率は増加に転じるというものである。いったん下がってそこで安定し、しばらくしてまた上がるというところからバスタブのような形状をしているということで、バスタブ曲線と言われている。

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出典:JEITA webサイトhttps://home.jeita.or.jp/cgi-bin/page/detail.cgi?n=117&ca=1

で、先のような話を考えると、実はモノの価値というのもバスタブ曲線なのではないかと思うのである。上記の図で言えば「初期故障期間」にあたるのはその製品が市場に並んでいたり、中古市場でそれなりの値段が付く間。「偶発故障期間」にあたるのは中古でもほとんど値段が付かない状態、そして「摩耗故障期間」がレアモノとしての価値を持ち始めた状態である。

もちろん、新品価格を超えるほど値上がりするかといったらそうとも限らないのだが、一定の期間を経過し、現存数が減った結果としてレアでありさえすればどのようなものであっても一定の価値が生じるのはわりとあり得ることのように思える。

とはいえ、この図の底の部分は想像以上に長い。先に挙げた例だと、車で言えば30~40年維持してようやくである。ここを最初から狙っていくのは相当の愛もしくは忍耐が必要になるであろうことも間違いないだろう。

一方で、今は世の中に溢れていてゴミ同然に扱われているものでも、それらの現存数が少なくなってくると新たな価値が生まれるかもしれないというのは一種の福音かもしれない。もっとも、それがいつ始まり、どのくらいまで上がるのかというのは先の通り神のみぞ知ることなので、やはりこれも狙っていけるようなものではない。

とはいえ、今価値がないと思われているものこそ、実はそれらを底値で楽しめるチャンスだ……と考えるのは、一種のポジティブシンキングとして悪くないのではないかと思っている。

埋める人々

死体を埋める百合というネットミームがある。

ざっくり掻い摘んで言うと女性×女性のカップリングにおいて共に死体を埋めるというシチュエーションに関係性萌えを見出すというものであり、これのルーツについては下記のような先行研究が存在している。

note.com

この偉大なる先人の足跡をなぞった上で今更何を言えるのだろうかという話であるのだが、こうした先行研究において未解明な点もわずかながら存在している。今日はそんなお話。

先の記事には"『死体を埋める◯◯(男男や男女、またはそれ以外を指す言葉)』という構文は百合以外に存在せず、かつ定着していないと認識している"とある。実際に男女カップルやゲイカップルにおいてのそれを考えてみると、確かに「死体を埋める百合」に相当するキャッチーな言葉は生まれていないように思える。

仮にそのまま当てはめてみるとして「死体を埋めるカップル」はいかにも普通(サスペンスドラマとかではありそう)だし「死体を埋めるゲイ」もなんだかあんまりエモさを感じない。死体を埋めるというシチュエーションに萌えを感じるのは、どうやら確かに女×女の時だけのようだ。つまりこのネットミームは女性二人でなくては成立しないと考えられているのである。

ではこの独特の情緒は何処から来るのだろうか?

まず最初に言っておきたいのは、ここで言う死体というのは百合の関係性を強化するマクガフィンであって、実際のところ誰がどんな方法で殺されたかといった部分にはたいした意味を持たないということである。結局のところここで最も大事なのは、目の前に死体があり、それを処理しなければならないというシチュエーションの方にある。

その上で萌えポイントを挙げるとすれば「死体を誰かと共に埋める状況」というのは誰にも言えない秘密の中でも最上級のそれであり、心を許していなければ他人に絶対に打ち明けることは出来ないという点にある(ここでは偶然巻き込まれるタイプについては置いておく)。

そもそも百合という関係性も程度こそあれ最終的に同性愛方向に接続されるのは否定しきれず、ややアブノーマルで背徳的な面を持ち合わせている。そうした若干の後ろめたさのある関係性に対して、それを大きく超えるようなそれこそ「後ろめたいどころでは済まない出来事」が二人の関係性に突然降りかかってくるのである。

改めて言うまでもなく死体遺棄は犯罪である。故に「死体を処理しなくてはならない」と誰かに打ち明けるだけでも大変な勇気を必要とする。まして共に埋めるというのであればその瞬間から共犯者になってしまう。これはあまりにも重い出来事であり、逆に言えばその重さを受け入れるという関係性に対して心が動く(萌える)面があるのだろう。

……で、もしそれが萌えの源泉なのであれば、むしろ性別って関係なくない? っていうのが疑問として発生する。各々が置かれた状況はあるにせよ、少なくとも死体を埋めなくてはならないというのは、老若男女どんな人にとっても一大事である。そしてそうであるならば、上記のような重さやそれに伴う萌えは女性の同性カップルに限る話でもないはずだ。なのに、ネットミームになるのは百合だけなのだ。

一体それは何故なのか。ここで仮説として挙げたいのは「男性であれば死体処理くらいなんとかこなせそう」という意識(?)の存在である。実際そんな簡単な話でないはずなのだが、どういうわけか我々の頭の中には「男性は死体処理が出来て、女性は死体処理が出来ない」という暗黙の了解が存在している気がしてならない。

もちろん、腕力や基礎体力からしても男性の方が有利なのは確実だ。前述のシチュエーションでは「死体を埋める」という点にフォーカスしているが、実際穴を掘るのも男性の方が得意だろうことは間違いない。そして男性一人が誰かを埋めるシーンはなんとなく想像が付くが、女性一人だと難しそうというイメージもある。

つまり、女性は死体処理──しかも「埋める」──という点についてはどうあっても半人前なのである。一人だけでは死体を埋めることすらも叶わないのだ。

そしてこれが「死体を埋める百合」における萌えポイントにも繋がるのではないかと考えられる。すなわち「一人では埋められず、かといってこんな秘密を明かせる人間などそうそう居ない……そして仮に打ち明けて協力を得られたとしても、二人が完全に協力してようやく達成出来るかどうか」というギリギリの課題、それが死体を埋めるという行為なのである。

で、ここに男性が登場するとどうなるかというと、埋めること自体はクリア出来そうなのでその先の段階が登場する。すなわちより証拠が残らないようにとか、手早く効率化するとかである。こうなるともう方法論なので、萌えポイントというよりはミステリの領域に入っていくだろう。

故に、死体を埋める百合は百合でなければ成立しないのである。たぶん。

モノサシは伸びてゆく

写真に写したモノの大きさを伝えるというのは、簡単そうに見えて実は言うほど簡単なことではない。例えば旅先で、ガイドブックに載っている写真から想像していたよりも小さな盛り付けの料理が出てきてガッカリした経験を持つ人も多いことだろう。

ちょっとカメラを囓った人ならご存じかもしれないが、写真というのは焦点距離によってパースの付き方がガラッと変わるし、これはカメラの向きや傾きにも左右されてしまう。そしてそれらとは別の理由として、先のようなガイドブックの場合は料理だけが切り抜かれて掲載されることも多く、それが余計にそのものの大きさを分かりづらくしてしまう。

そこで大きさを伝える際によく使われるのが、比較対象になるものを被写体と同時に写し込むというやり方である。工事写真や資料写真などは寸法の面でも正確性が問われるため、写真の中に定規的なものを写しこむことが定められているものも多い。ちなみに工事写真によく写し込まれている赤白の定規はリボンロッドと言うそうな。

もちろん、定規を写し込むというのは正確性を期すためのものであって、定規ほどの厳密さが必要ではない用途も多い。ただ、厳密さは不要であっても、写真を見ている側に分かりやすくする為、比較対象として様々なものが写し込まれることはよくあることである。ガジェット等の紹介ではその機種の旧機種であったり、そうでもなければ身近な日用品としてペットボトルやタバコなどと並べて大きさを比較しているのがよく見られる。

旧機種はともかく、これら身近な日用品が物差し代わりになり得るのは、ひとえに見ている側の人間にもそのサイズが想像しやすいからである。もちろん厳密なサイズを伝えるのであれば先の通り定規を写し込むのが最善かもしれないが、手近なものを写し込むだけでも分かりやすさはグッと向上する。逆説的に言えば、こうした時に写し込まれる対象は多くの人がその大きさをイメージしやすい、いわば「寸法を共有した存在」でなくてはならない。

そうした前提を述べた上で、ここで2013年に書かれた次の記事を見て欲しい。

dailyportalz.jp

人気サイトであるデイリーポータルZに掲載されたこの記事では、あたかも「小盛」という概念が機能していないかのような盛りの良い店ばかりを巡って、それらのメニューの商品名とは裏腹のボリュームとそのおかしさを取り上げている。

そしてこの記事中では、三件目の店のメニューを紹介する際にサイズの目安としてスマートフォンを置いてその大きさを伝えようとしている。

記事の筆者自身箸やスマートフォンを置いて大きさに見当がつくようにしたが、今ひとつわかりづらいだろうか」と述べてはいるが、とにかくにもサイズ感を示す一つの目安としてスマートフォンが活用されているのである。

これは当時のスマートフォンが「誰もが持って(もしくは目にして)いるのでサイズ感を共有する方法としてふさわしい」と考えられていたと考えて良いだろう。iPhone等特定の機種名を挙げていないことからも「だいたいの目安」として考えられていただろうことは明らかである。

しかし、2020年にこの記事を読むと別の混乱が発生する。

登場時においては4インチですら大画面と呼ばれたスマートフォンという機械はその後長足の進化を遂げ、今では7インチに迫る大サイズが標準的になってしまった。記事が掲載された2013年といえば、4インチ台の機種が主流だった時代である。記事に掲載されているスマートフォンも(当然記事掲載以前に購入されたと考えれば)3~4インチ程度の端末であろう。2020年現在では3~4インチの端末はもはや小型スマートフォンに分類されている。

つまり、2020年の目線からすれば「この記事が2013年に書かれたものであり写し込まれているのは古の(現代の目からすれば)小型スマートフォンである」と認識して記事を読むか、それとも「この記事に写し込まれているのは現代同様のスマートフォンである」と認識するのかどうかで、読み手が感じる丼のサイズ感はかなり狂ってしまうのである。

そう、基準であり皆に共有された認識であるはずのモノサシの側が時とともに巨大化してしまい、モノサシがモノサシとして機能しなくなってしまったのだ。

……そういえば、この記事のポイントは小盛りって書いてあるのに実際に出てくるのは明らかな大盛りであり、小盛りという「基準が基準として機能していない」店とそのメニューのおかしみにあった。

そういう意味では、記事の掲載から数年の時を経てサイズの基準にしたはずのスマートフォンが巨大化してしまい「基準が基準として機能しなくなった」というパラドキシカルな出来事は、この記事に対してちょうどいい追加のオチになっているのではないかと思うのである。もちろん、元記事の筆者にとっては全く想定外の事象かもしれないのだけど。