インターネット

無名サイトのつづき

フローとストック

かつてインターネットが個人サイトで溢れていたころ、界隈には狂人がウヨウヨしていた。

──彼らはwebサイトの管理人であった。

彼らはなんの見返りも期待せず、持てる知識や経験を惜しげも無くさらけ出し、誰に頼まれるでもなく自らのwebサイトを充実させていった。そこにはまるで損得勘定など存在しないかのようだった。いや、むしろかつての個人webサイトにマネタイズ要素などなかったので、少なくとも金銭的にはマイナスだっただろう。それでもコンテンツを生み出していたのだから、やはり彼らは一種の狂人そのものであった。

もちろんそこには、すごいwebサイトを作り上げればやがて有名サイトになり、管理人もまた有名人になれる……というインターネットドリーム的なものが存在したのも確かである。ただ、当時のインターネットドリームはせいぜい界隈の有名人、登り詰めても書籍化がせいぜいといったところで、例えば今のVtuberのようにスパチャでメイクマネーといったようなダイレクトなそれではなかった。

そしてそのような(今の目線で見れば)ささやかな成功ですら、ごく一握りに与えられたご褒美でしかなく、結局のところ世の中にある大半のサイトはたいした反応もなしに続けていかざるを得なかった。

多くの無名サイトは、だいたいそんな感じだった。

そして、当時のインターネットで得られる反応といえばせいぜいwebカウンターやアクセス解析程度のもので、あとは掲示板にたまに書き込みがあるかどうかというところだった。

とはいえ、よほどの人気サイトでないかぎり反応というのは希で、多くの場合はそんなものがなくても続けていく、というのが当時の管理者たちの矜持であったように思える。

さて、そんな個人サイト全盛時代もそのうちに終わりを告げ、いつしかSNS全盛時代となった。SNSの功罪についてはいくつもあるだろうが、かつての個人サイトを知る身としては、反応のダイレクトさとスピードの違いが最も印象に残っている。

例えば、リアルタイムに確認出来るfavやレスの存在が挙げられる。もちろん当時からweb掲示板等で半ばリアルタイムのやりとりは存在していたが、SNSにおいてはある程度好意的な反応が返ってきやすく、かつリアルタイムという点で大きな意義があった。日本のわりと黎明期のTwitterにおいてはそれこそ赤ふぁぼ(5人以上からfavをもらったツイートを指す)で一喜一憂するなんて慎ましいものだったが、いつのまやらユーザーも増え、今やひとバズりで数千や数万のfavが付くような世界になっている。

しかし、こうしたSNSの隆盛はインターネットの速度自体を加速させることにも繋がった。「イマ」のネタにフォーカスして盛り上がるという楽しみ方が続いた結果、話題は刹那的になり、その瞬間にしか盛り上がらなくなったようにも感じられるのだ。話題は常に流れていき、短い旬が過ぎたらその話はもうおしまいである。あとから追いかけようとしても大変に検索性が悪い。

しかし、流れている間はリアルタイムでコメントやfavが付くのだから、その流れに乗ること自体は大変心地がいい。かつてのインターネット(個人サイト)では来なくて当たり前だった反応というものがガンガン来るのだから、これだけでも発信者に取ってはすさまじい快感である。

こうしたひたすらに流れていくそれは、言ってみればフロー型の情報だと言えるだろう。現代のインターネットの楽しみ方はフロー型で、かつ流れは大変に早くなっている。

一方で、かつての個人サイトやブログは、そこに情報を置いておくことで──ひょっとしたら今必要な人はいないかもしれないが──いつか誰かがこの情報を探し求めた時に光明となる、そんな期待も込めて情報が書き残されていたように感じる。

これはストック型の情報と言い換えてもいいだろう。もちろん、このような期待によって置かれた情報が活用されるかというのは未知数であり、ひょっとしたら全てが活用されることはなかったのかもしれない。

しかし、例えばPCのトラブルでようやく解決のヒントを見つけた時──あるいはあまりにもマイナーでマニアックな趣味を極めようとした時──検索に検索を重ねた末、諦めかけたその先に先人の足跡を見出したという経験はおそらく多くの人が持っているのではないかと思う。それらはひょっとしたら、そうした先人たちが見返りを求めず残した情報だったのかもしれない。

そういう意味では、このブログは完全に狂人のものである。

実際、SNSに書けばきっとそこに少しのfavが付いて、そして多分それで満足出来る。それでも尚こんなことをここに書き残すのは、現在のブログというものがストックの情報であり、誰に届くかもわからない一種のボトルメールであるからなのかもしれない。

願わくば、この記事もどこかの無人島で寂しく過ごしている人に届きますように。

見分けるカギはどこにある

昔から不思議に思っていることの一つに、二次元キャラクターの違いや、それらの二次創作においての違いというものは一体どうやって認識されているのだろうかというものがある。

どういうことかというと、キャッチーな記号の組み合わせで作り出された二次元キャラにおいては、それらの持つ特徴点が被ることがよく発生するのだ。例えば「赤いリボンで金髪で髪型はロングで……」といった特徴点を次々に挙げていってもそれに該当するキャラは多数いるため、人によって思い付くキャラが異なったりするのである。

とはいえ、特定の作品に登場するキャラであれば、元になる絵……いわゆる原作絵が存在するので作者のタッチによって見た目は明らかに区別される。「赤いリボンで金髪で髪型はロングで」あっても、歳納京子と星宮いちごは明確に区別されるのである。無論、ほかの赤リボン金髪ロングキャラであっても同様に。
つまり、人は特徴点が同じキャラであってもその二つを見比べ、例えばタッチが異なるなどの理由から、それらは明らかに別のモノであると認識出来るのである。
しかし、この区別というものは時に揺らいでいくことがある。
昔からキャラの書き分けが出来ない絵師や漫画家を指してハンコ絵(判で押したように同じ顔が並ぶ)といった悪口は存在したが、例えば特定の漫画家の前後作において、ほとんど髪型のみで区別されている別キャラクターが存在することがある。
例えば、このキャラが物語の進行上の都合で普段とは異なる髪型になるとしよう。
もちろんそれは流れとしてはAという作品の中で行われることなので、そこに登場するのは紛れもないAに登場するキャラであり、その作者の前作Bに登場するキャラとは異なるということは容易にわかる。
だがその一方で、そのコマだけを切り出された場合に、そこに書かれたキャラがAに登場するキャラの髪型違いなのか、それともBに登場するキャラの髪型違いなのか、それを初見で判断するのは難しいのではないだろうか。
こうした問いの極端な例がネットミーム的になっている「あだち充先生作品ヒロインリスト」である。あれは元から見分けが付かないがとにかくにも、最大の特徴点が崩れ、補足する文脈も失われた時に、人はいったい何をもってどのキャラクターと判断するのだろうかという問いが生まれるのである。
これは例えば、現在ソーシャルゲーム等で隆盛を誇っている擬人化キャラなどにも当てはまる。デフォルト衣装においてはその元ネタのデザインを大変上手に取り込んだ、ある意味わかりやすいデザインであったとしても、そのキャラクターがイベント等で別衣装になった時に、元ネタとの関連性が断ち切られることがある(例:艦これの三越コラボ時の画像等)。もちろん見る側としては通常衣装が念頭にあってのことなので問題にもならないのだが、よく考えると当初のアイデンティティが消失しているも同然の状態である。
そしてこれらの混乱は二次創作になると更に顕著になる。二次創作においては原作絵に似せるということは必須の要件ではない。むしろ原作の枠組みを使用しながらも、原作絵とは異なる解釈、異なるタッチで描かれた作品の方が現在は主流であるように思える(いわゆるイタコ漫画家的な原作に画風を寄せたパロディももちろん存在しているが)。
すると、ごく希にだが「キャラ名を見る限りおそらく作者本人はAという作品の二次創作として制作しているのだが、絵を見る限りはBという作品が原作に見えてしまう」というややこしい状況が発生する。もちろん明示的にBのタッチでAを描く、みたいなことも行われているが、無意識にそれが起きているケースもあるのだ。
また、二次創作においては基本的には原作は枠組みでしかないので、例えば先のようなオリジナル衣装やオリジナル髪型なんかも発生することがあるが、その許容範囲というようなものが不思議で仕方ないのである。
というのも、ある閾値を超えれば「これって原作とはかけ離れてるしむしろオリキャラじゃん」と感じるポイントが(おそらく)存在するように思えるのだが、しかしその分水嶺が何処なのか、ただ一つのポイントに定められるという気はまったくしない。
原作に忠実・原作に似ている・原作からアレンジされている……そして原作が思い出せないくらい(あるいは別の原作に似てしまっている)まで、各段階多種多様なアレンジがある中で、いったいどこをどのように判断して許容範囲(?)が決まっているのか、よく考えるとまったくわからないことだらけなのだ。
こうした認知の限界点に挑む例としては「浜風のコスプレをしたマシュ」なども存在するが、こうした絵でさえも、最終的にはそれを見てどちらかに判断していることになるのだが、では個々人は一体どのポイントを持ってそれが浜風であったりマシュであったりと判断しているのだろうか。
人間はわからないことだらけである。

価値のバスタブ曲線

一般的には、世の中新しいものの方が価値があるということになっている。

例えば生鮮食品は古くなれば風味が悪くなったり、食べられなくなってしまうので新しいものほど価値があるというのは当然のことだろう。また、そうではない耐久消費財であったとしても経年劣化は発生するし、性能に関しても基本的には技術の進歩によって向上していくものなので、古いものは相対的に価値を減じていくことになる。

価値判断の基準としてはいろいろあると思うが、とりあえずここでは価格を想定している。これもたいていの場合、新製品は高価で、型落ち品はそれに比べて安価である。また基本的には発売日から終売までの間、概ね売価は下がっていく。中古品に関しても概ね同様である。もちろん下がり方の傾きは一定ではないが、これがほとんどの製品が辿る道である。

ということは、何かモノを買ったとしてそれが最も価値を持つのは買った瞬間であって、あとはそこから劣化していき段々下がっていくということになる。少なくとも売却価格については概ねそのようになっているし、減価償却制度なんかもそうした価値の劣化を前提としている。

つまり、仮に価値のグラフを書くとすれば年数が経過すると価値は共に右肩下がりで下がっていきゼロに近づいていくということになる。

なので、たいていの人はゼロになる前に適当なところで(買値よりは安い価格で)手放して買い直すか、あるいは売値としてはゼロでも用は足りるとしてそのまま使い続けるかを選択しているわけだ。

ところで、減価償却においては「時間が経っても劣化しない骨董品」は対象外とされている。骨董品はもはや古くなることによる価値の劣化とは別の次元にあり、それどころか古ければ古いほど価値が上がる可能性すらあるということで、そういう意味では対象外になるのも頷ける。

さて、事業者であれば減価償却対象になるような耐久消費財であっても、ある程度年数を経過すると今度は骨董品的な価値を持つことがある。また減価償却対象ではないにしても、ある製品が年月を経過した結果かえって手に入らなくなってしまい価格が上がることはよくある。

つまり、新品をスタートとして下がり続けた価値は、しばらくの間底を這い続けるのだが、どこかで反転して再度上を向くわけである。

例えば自動車であれば、ある年数までは単なる中古車扱いだが、残存数が少なくなってくるとネオクラシックと呼ばれ始め、最終的にはクラシックカー的価値を持つ車となる。2020年現在においては80~90年代の人気のある車が高騰しつつあり、逆に言えば70年代以前の車は車種としての人気云々を抜きにしてもすでに現存しているだけで立派なクラシックカー扱いとなっている。

また、新品時に安価かつ非常にたくさん製造されたものが、新品時に少数かつ高価だったものより残りづらく、かえって高くなったりすることもある。例えばある種の雑誌などは発行部数から言えば単行本よりも遙かに多いはずなのだが、残すようなものではないと思われていた結果現存数が非常に少なかったりする。一方で少数かつ高価なものは案外「これは高価なものだから残さなければいけない」という気持ちが働くのか、後世に残る割合は多めである。

例えばカメラで言うとライカなんかは後者の代表であろう。非常に高価で価値のあるものだから、仮に壊れれば(多少の負担を受け入れてでも)直すし、仮に手放す際もキチンと値段が付き、次のオーナーに受け継がれていく。一方でそうでない無名メーカーのそれは、壊れても直すほどの価値を感じなかったり、あるいは完動品であっても次のオーナーも見つからず、ゴミとして処分されたりする。

とはいえ、不運にもゴミとして処分されるライカもあれば、偶然眠り続ける無名メーカーのそれもきっとある。全体としてはどちらも年数を経るごとに現存数は段々ゼロに近づいていき、珍しいものになっていく。そうなれば「レアモノ」としての価値はますます増加することになる。

ところで、製品の故障率を示すグラフとしてバスタブ曲線というものがある。これは初期不良といった使用初期の故障率が高く、ある程度それが収まると低い故障率で安定し、やがてそれ自体の損耗によって再び故障率は増加に転じるというものである。いったん下がってそこで安定し、しばらくしてまた上がるというところからバスタブのような形状をしているということで、バスタブ曲線と言われている。

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出典:JEITA webサイトhttps://home.jeita.or.jp/cgi-bin/page/detail.cgi?n=117&ca=1

で、先のような話を考えると、実はモノの価値というのもバスタブ曲線なのではないかと思うのである。上記の図で言えば「初期故障期間」にあたるのはその製品が市場に並んでいたり、中古市場でそれなりの値段が付く間。「偶発故障期間」にあたるのは中古でもほとんど値段が付かない状態、そして「摩耗故障期間」がレアモノとしての価値を持ち始めた状態である。

もちろん、新品価格を超えるほど値上がりするかといったらそうとも限らないのだが、一定の期間を経過し、現存数が減った結果としてレアでありさえすればどのようなものであっても一定の価値が生じるのはわりとあり得ることのように思える。

とはいえ、この図の底の部分は想像以上に長い。先に挙げた例だと、車で言えば30~40年維持してようやくである。ここを最初から狙っていくのは相当の愛もしくは忍耐が必要になるであろうことも間違いないだろう。

一方で、今は世の中に溢れていてゴミ同然に扱われているものでも、それらの現存数が少なくなってくると新たな価値が生まれるかもしれないというのは一種の福音かもしれない。もっとも、それがいつ始まり、どのくらいまで上がるのかというのは先の通り神のみぞ知ることなので、やはりこれも狙っていけるようなものではない。

とはいえ、今価値がないと思われているものこそ、実はそれらを底値で楽しめるチャンスだ……と考えるのは、一種のポジティブシンキングとして悪くないのではないかと思っている。

埋める人々

死体を埋める百合というネットミームがある。

ざっくり掻い摘んで言うと女性×女性のカップリングにおいて共に死体を埋めるというシチュエーションに関係性萌えを見出すというものであり、これのルーツについては下記のような先行研究が存在している。

note.com

この偉大なる先人の足跡をなぞった上で今更何を言えるのだろうかという話であるのだが、こうした先行研究において未解明な点もわずかながら存在している。今日はそんなお話。

先の記事には"『死体を埋める◯◯(男男や男女、またはそれ以外を指す言葉)』という構文は百合以外に存在せず、かつ定着していないと認識している"とある。実際に男女カップルやゲイカップルにおいてのそれを考えてみると、確かに「死体を埋める百合」に相当するキャッチーな言葉は生まれていないように思える。

仮にそのまま当てはめてみるとして「死体を埋めるカップル」はいかにも普通(サスペンスドラマとかではありそう)だし「死体を埋めるゲイ」もなんだかあんまりエモさを感じない。死体を埋めるというシチュエーションに萌えを感じるのは、どうやら確かに女×女の時だけのようだ。つまりこのネットミームは女性二人でなくては成立しないと考えられているのである。

ではこの独特の情緒は何処から来るのだろうか?

まず最初に言っておきたいのは、ここで言う死体というのは百合の関係性を強化するマクガフィンであって、実際のところ誰がどんな方法で殺されたかといった部分にはたいした意味を持たないということである。結局のところここで最も大事なのは、目の前に死体があり、それを処理しなければならないというシチュエーションの方にある。

その上で萌えポイントを挙げるとすれば「死体を誰かと共に埋める状況」というのは誰にも言えない秘密の中でも最上級のそれであり、心を許していなければ他人に絶対に打ち明けることは出来ないという点にある(ここでは偶然巻き込まれるタイプについては置いておく)。

そもそも百合という関係性も程度こそあれ最終的に同性愛方向に接続されるのは否定しきれず、ややアブノーマルで背徳的な面を持ち合わせている。そうした若干の後ろめたさのある関係性に対して、それを大きく超えるようなそれこそ「後ろめたいどころでは済まない出来事」が二人の関係性に突然降りかかってくるのである。

改めて言うまでもなく死体遺棄は犯罪である。故に「死体を処理しなくてはならない」と誰かに打ち明けるだけでも大変な勇気を必要とする。まして共に埋めるというのであればその瞬間から共犯者になってしまう。これはあまりにも重い出来事であり、逆に言えばその重さを受け入れるという関係性に対して心が動く(萌える)面があるのだろう。

……で、もしそれが萌えの源泉なのであれば、むしろ性別って関係なくない? っていうのが疑問として発生する。各々が置かれた状況はあるにせよ、少なくとも死体を埋めなくてはならないというのは、老若男女どんな人にとっても一大事である。そしてそうであるならば、上記のような重さやそれに伴う萌えは女性の同性カップルに限る話でもないはずだ。なのに、ネットミームになるのは百合だけなのだ。

一体それは何故なのか。ここで仮説として挙げたいのは「男性であれば死体処理くらいなんとかこなせそう」という意識(?)の存在である。実際そんな簡単な話でないはずなのだが、どういうわけか我々の頭の中には「男性は死体処理が出来て、女性は死体処理が出来ない」という暗黙の了解が存在している気がしてならない。

もちろん、腕力や基礎体力からしても男性の方が有利なのは確実だ。前述のシチュエーションでは「死体を埋める」という点にフォーカスしているが、実際穴を掘るのも男性の方が得意だろうことは間違いない。そして男性一人が誰かを埋めるシーンはなんとなく想像が付くが、女性一人だと難しそうというイメージもある。

つまり、女性は死体処理──しかも「埋める」──という点についてはどうあっても半人前なのである。一人だけでは死体を埋めることすらも叶わないのだ。

そしてこれが「死体を埋める百合」における萌えポイントにも繋がるのではないかと考えられる。すなわち「一人では埋められず、かといってこんな秘密を明かせる人間などそうそう居ない……そして仮に打ち明けて協力を得られたとしても、二人が完全に協力してようやく達成出来るかどうか」というギリギリの課題、それが死体を埋めるという行為なのである。

で、ここに男性が登場するとどうなるかというと、埋めること自体はクリア出来そうなのでその先の段階が登場する。すなわちより証拠が残らないようにとか、手早く効率化するとかである。こうなるともう方法論なので、萌えポイントというよりはミステリの領域に入っていくだろう。

故に、死体を埋める百合は百合でなければ成立しないのである。たぶん。