インターネット

無名サイトのつづき

なれなかった人達のために

個人サイトという形式は、自分がwebと初めて触れた00年代前半と比べるとずいぶん勢いを失ってしまったように思える。

かつてのwebというのはそれこそwebサイトを見るために回線をつなげるものだったと思っている。もちろん今と同じようにメールはあったし、ネットゲームもあった。まだまだSNSと呼べるような物はなかったように思えるけれど、似たようなものでチャットルームがあったりした。僕自身も見知らぬ誰かと喋れるのがなんだか楽しくて、ずいぶん入り浸った思い出がある。まだまだクライアント型のメッセンジャーの敷居が高かったころのお話だ。けれどもそれらはあくまでもオマケでしかなくって、僕の中で当時インターネットというのは「ホームページを見る」ことと同義だった。ホームページの本来の意味がどうこうなんて議論はこの際横に放り投げておいて。

そして当時のwebというのは、まだ僕らに「個人でもホームページが持てて、インターネット上では平等」という幻想を見せてくれていたように思える。 

実際、ジオシティーズのテンプレートであっても自分の名前を入れたホームページを作るだけでなんとなく世界に一歩踏み出したような気がしたし、初めて自分のゲストブックにテスト書き込みをしたときはただのテストの文字でも輝いて見えた。自分の家以外から、メモに書き写したURLを一文字一文字タイピングして自分のホームページが表示された時は、とっても嬉しかった。そして自分もいつか、たくさんの人で賑わっている行き付けのサイトのようになれると、そこまでは行かなくてもひとかどの存在にはなれると、本気でそう思っていた。これはきっとたぶん、僕だけじゃなかった筈だ。

そしてもちろん、ひとかどにもなれないままほとんどのサイトは消えていった。

内容が誰かに認められることがあれば更新のモチベーションも保てるのだろうが、ただホームページを作ってみたかっただけの大多数にとっては更新は煩わしいものでしかなかったし、ましてや他人から見て価値のあることを提供し続けていくというのはハードルが高すぎた。もちろんここで認められた人達はよりよいページを目指していった結果素晴らしいサイトを作り上げていったのだが、ほとんどの人はそのうちに更新を停止して、それっきりだったように思える。

そしていつしか、ネットはホームページを見るためのものではなくSNSを見るためのものになったように思える。

「自分対全世界」だったかつての個人ホームページに対して、SNSが向いてる方向というのは「自分対友人+α」であり、意図している公開範囲が狭い分、有意な反応というものも得やすい。たとえば日常をおもしろおかしく書き綴って、全く知らない人を楽しませるのはやっぱり一種の才能が必要だ。でも、SNSで友人に反応をもらう程度であれば、それよりはだいぶハードルが低い。そしてきっと、みんな誰からも無視されるだだっ広い世界よりは、誰かが自分のことを見てくれる世界の方がずっと居心地がいいのではないかと思う。

個人的には、個人サイトというスタイルが輝きを失ったのは、そこそこ面白いけど有名というわけでもない書き手の人たちが、不特定多数に向けた個人サイトを捨てて、確実なウケを狙えるSNSに行ってしまったからなのではないかなと思っている。かつて僕は旧サイトでこうした動きを馴れ合いだなんて糾弾していたが、浸かってしまえばこれほど気持ちのいいぬるま湯もない。

だから繋がれない人間が何処に向かうのかなんてことは、考えてはいけないのだ。