インターネット

無名サイトのつづき

趣味車を買う[購入編]

車を買った。

それも、もう二年も前のことになる。わりと大きいネタにも関わらずなんにも書いていなかったのもどうかと思うのだが、そうこうしているうちに手に入れてから最初の車検を迎えてしまった。というわけで、これも何かの切っ掛けだろうと思いこの二年ほど保有した車について書いていきたい。

さて、話は二年とさらに数ヶ月ほど前に遡る。高校時代から原付に乗り始め、それから長いこと原付一種(50cc)にこだわり続けてきたのだが、さすがに法規面での雁字搦めぶりに嫌気がさしてきた。当時は電動キックボードなどが出始めた頃でもあり、あんな無法な乗り物よりも原付一種はさらに不自由であることを見せつけられ、とうとう絶望したのである。

それまでヒマとカネと体力が揃わないので二輪免許の取得はしてこなかったのだが、こうなってみると二輪免許を取得する以外に解決する方法はありそうにない。そうであるならは今この瞬間が一番若いというわけで、思い立ったが吉日で職場の側にあった二輪専門校(県下で一番厳しいという噂があり、実際現代の教習所としてはかなりスパルタ寄りだった)の門を叩いて普通自動二輪免許の取得を目指し始めたのだった。

……で、約二年前。
無事教習課程を修了し、卒検の日の出来事であった。

無事免許が取れたら、そのときはどんなバイクに乗るかというのも楽しみの一つであった。当面は手元のXR50モタードをボアアップするとして、せっかく400ccまで乗れるようになるのだし、そうなれば選択肢はこれまでとは比べものにならないくらい広がるからである。

そう、当初はバイクを買うつもりだったのだ。

が、卒検が近付くプレッシャーから、数日前からなんとなくヤフオクを見ていたのが良くなかった。当時から何故か友人にオープンカー乗りが多数いたのでオープンカーに対する憧れというものも並行して存在しており、まぁでも予算的に買えるのはNC以前のロードスターがせいぜいだな……と思っていた。ただ現在の愛車(スイフトスポーツ ZC33S)を売ってまで買うようなものでもない。かといって、普通車二台持つというのもなかなか大変である。

というわけでこの二台持ち構想は妄想で終わるのかと思っていたのだが、初代コペンであればロードスターよりもさらに維持費が安いということで、ひょっとしてコレ買えるんじゃね? なんて思い始めてしまった。そしてそう考えているうちに、屋根が開くとはいえターボでFFのコペンは要素的には一部スイスポに被るので、どうせサブとして乗るなら全然要素が被らない車の方がいいのでは……とも思い始めたのである。

かくして、軽でオープンでFFじゃなくてターボじゃない……そしてもちろん、自分の手が届く程度の金額の車という条件が定まってしまった。そしてそんな都合のいい車がヤフオクに出ており、なんと教習所と同じ市内からの出品だったのである。

値段は相場なりというか、激安ではなくヤフオクの中ではやや高めだが極端に高いというわけでもない。そういう価格だったからか未だに入札も入っていなかった。そして終了予定日は卒検の翌日だった。これはものの試しにいっぺん見に行ってもいいのではないかと思い、気がついたら現車確認の連絡を入れていた。

そしてなんやかんやでここ数ヶ月の苦労が報われて卒検には無事一発合格し、二輪免許を手にすることになった。その高揚感もそのままに、お次は現車確認へ向かうことになったのである。今考えるとこういう舞い上がってる時に車見に行かない方がいいと思うけど後の祭り。

で、見に行った車種はというとホンダのビートである。軽・オープンカー・NA・MR・90年代生まれと見事なまでにスイスポとは要素の違う車なので、いっそこのくらい違った方が面白いのではという目論見もあったし、古い割には現存数の多い車なので値段もそれなりにこなれていた。それこそネオクラシックだのなんだのでR32 GT-Rが4桁万円なんて話からすればいたって平和なお値段である(もちろん、30年落ちの中古の軽と考えれば十分に高い)。

そんなわけで現車を見ると、パッと見でなんだかずいぶんとしっかりしているように見えた。幌は張り替え済、エンジンはオーバーホール済、ボディも軽い事故由来で全塗装しているらしく褪せやすい赤なのにツヤが残っている。よく言われるサイドシルのサビも外から見る限りは問題に感じなかった。車検は切れていたが、最近まで普通に乗っていたとのことである。

もうこの年式なのでメーター交換歴あり(※ビートのメーターは壊れやすい)とか軽い事故歴ありとか小傷小凹みなんかはたいして気にならないのだが、いわゆる実用の程度としては上々に見えた。真っ当に手がかけられた個体という印象である。

とはいえ、ビートが欲しくて何台も見比べたわけではなくてこれが一台目なので見る上での基準もない。なによりオープンカーは初めての身でもある。というわけで知り合いの中古のオープンカーばかり乗り継いでいる人間(当時はBMW Z4Mを保有)にアドバイザーというテイで来てもらった。いろんなオープンカーに乗ってる人から見たら何か感じるものもあるだろう。もしそれほど良くないのであれば、その時は入札せずに帰ればいいのだから。

……そしたら、来てサッと見るなり「これはボディがしっかりしてるので買いだ」とか言い始めたのでこっちも頭を抱えてしまった。金額的に頑張れば買えないこともないのだが、そうは言ってもそれなりの額である。頭を抱えつつも、その場で別の知り合いに手持ちのカメラを売却の相談を入れることである程度金策の目処が付いた(付いてしまった)ので、その場で先方の希望金額を入れて購入することになった。かくしてこの瞬間、バイクの乗り換えは当面棚上げされると同時に増車が決まったのである。

結局、比較もなんもせず、買うかどうかも決めていないのに見に来て一時間ほどで決めてしまった。ちなみにこの時はもし気に入られなければ最悪売ってしまえばいいかなくらいに思っていたのだった。

ともかく、ハイになっている時の買い物には気をつけよう(自戒)。

破壊ポルノ

Appleの新しいiPad発表に伴い用意されたプロモーションビデオが、少なくとも日本語圏ではかなり物議を醸している。

https://x.com/tim_cook/status/1787864325258162239?s=46&t=IZz7RXctgzWkoUgl4UvzzQ

詳しくは見てもらった方が早いのだが、新しいiPadがあらゆる機能を薄いボディに内包したということを示すためにその機能を象徴する各種のモノをまるごとプレス機で押し潰し、再度開くとそこには(それらを集約した象徴として)iPadが置いてある……という構成になっている。

で、日本ではこのビデオ概ね評判が悪い。おそらくは付喪神信仰を含めたモノに対する擬人化であったりとかも関係するとは思うのだが、少なくとも道具としての寿命を迎えていない(≒破壊される理由のない)モノが破壊されるというのが日本人にとってあまり好まれない表現なのは確かである。

このビデオについてはそもそもたくさんの機能をここに集約しましたみたいな表現自体が陳腐だとかいろいろ論点はあるのだが、本稿では破壊表現に限った話をしていきたい。なんでこんな破壊表現がまかり通るのか。それは破壊がポルノだからだ。

 

 

 

 

……とまぁ、いきなりあまり一般的ではない用語をぶち上げてしまったが、個人的にはこの「破壊ポルノ」というやつは実はそれなりにメジャーな存在であると考えている。

今回の例で言えば、そもそもApple自身でさえ過去iPhoneをミキサーにかけられてしまったこともあるし、これ以外にも色んなものを高所から落とすだとか、油圧プレスで潰してみるとか、刀で切ったり銃で撃ったり……まぁ破壊というのはそれなりにエンタメとして堅いところにあると言っていい。

なんらかの感情を半強制的に誘発させるという点ではまさしくポルノであり、建前上また良識ある大人にしか見せられないという点もポルノ的である。つまりこれらは破壊によるポルノ、破壊ポルノである。

わりと本質的な欲求に近いレベルで人は破壊が見てみたいし、それに応えるコンテンツも生まれ続けている。 映画のアクションシーンなんかも高度に洗練された破壊であり、それに一種の爽快感を覚えるというのもよく聞く話である。

それが故に、破壊表現自体はこうしたAppleほどの大メーカーであっても広告表現として採用されうる、メジャーなものになっているのだ。

で、そんな破壊ポルノにも上限(?)はある。それは破壊されるものが無生物に限るという点である。なにせ破壊されるのが人間や動物であるとそれはグロ画像やグロ動画に近付いてしまう。もちろんそれらを実は見てみたいという衝動も存在しているが、多くの共感を得られるラインから外れるのは間違いないだろう(逆に言えば、先のAppleのような「モノの破壊」は多くの共感が得られるか、少なくとも許されるものとして考えられていると言える)。

これをiPadの動画に置き換えてみると、多くの機能がiPad一台に集約されることを示すのであれば、むしろ各機能における象徴的な人物ごと押し潰すほうが直接的な表現と言える。例えばギターそのものではなくバンドごと押し潰すとかすればいいわけであるが、そうはなっていない。人が潰されるのはグロであり、共感からは外れる……ということなのだろう。

とはいえ、そこまでいくと無生物なら潰していいのかとかそういう哲学的なところに踏み込んでしまうのであまり深追いしない方がいいだろう。

ここで言いたいのは、破壊ポルノは存在していてある程度メジャーな表現だということである。

キュレーションの時代(とその終わり)

インターネットは世界の何を変えたのか? 今更になってこの問いに答えるのはおそらく難しい。それは影響があまりにも多岐に渡るというのもそうだし、インターネットがインフラとなって以降の時代しか知らない世代にとっては水や空気のない世界を想像するようなものだからである。

ただ、インターネットが実現したことの一つに「個人がメディアとして情報発信出来るようになったこと」というのは間違いなく存在し、これが世界を変えた要素の一つであるというのもまた否定する者はいないだろう。

そう、かつてメディアというものは片方向であった。新聞やテレビやラジオや雑誌やら……要するに様々な意味で力のある団体等により大衆に一方的に与えられるものだったのだ。もちろん双方向性というものが全くなかったわけではないが、その双方向性というのは非対称なもので、言うなれば既存メディア側に圧倒的優位な状況で繰り広げられるコールアンドレスポンスであった。大衆は観客の立場であり、よほどのことがない限りはステージ上に立つ側ではなかったし、もちろんステージ上で対等に振る舞うことなど考えられなかったのである。

そしてそれを変えたのがインターネットであった。当時のインターネットの主体であったwebサイトは、大衆がいちメディアとして──少なくともインターネットの上では──対等になれる手段だったのである。故に当時の個人サイトでは、既存メディアでは行き場のなかったマニアックな情報などが盛り上がりを見せ、それ故に既存メディアより面白いという認識も生まれていった。

とはいえ、かつてインターネット上の情報というのは既存メディアのそれよりも一段低いモノだと見られていた。

というのも、先に述べた通り情報を発信するにしても既存メディアで活動するようなプロである必要がなく、在野のアマチュアから発信される情報はまさに玉石混淆だったからである。

00年代初頭は同時並行的に匿名掲示板が流行っていたこともあり、特に匿名掲示板で流布される情報は発信者が誰であるかもわからない無責任なものであるとして、時として既存メディアの側から攻撃の対象にもなっていた。いわゆる「便所の落書き」扱いである。

これで実際、既存メディアが言うとおり玉石で言うところの石ばかり……つまり価値のない情報しか集まっていないのであれば、インターネットにはそれ以上の価値は認められなかったところだろう。

だが、実際には在野の狂人達が存分に力を振るうことでインターネット上の情報は既存メディアとの差別化に成功し、いつしか既存メディアと互角に渡り合うものさえ出現し始めた。

中にはそうしたインターネット上の情報を臆面もなくパクっては自分たちの収益とする既存メディアも発生しはじめ、こうした不義理によってもインターネットと既存メディアの対立は深まっていったが、それはインターネットにある情報が世間一般に認められるレベルに到達しているという証でもあった。インターネットには玉もあるというのはもはや誰も否定できない事実となっていたのである。

……が、それでも参入障壁の低さから石も流れ込み続ける以上玉ばかりということにもならず、つまり全体として見ればネット上の情報というのはいつまで経っても玉石混淆のままであったのである。

そして00年代の半ばにはブロードバンド時代を迎え、ネットの参入障壁がますます下がると同時に、ありとあらゆる知が(玉石混淆のまま)インターネットに流入し、いつしか溢れてしまうのではないかということが真剣に議論され始めた。

そう、皆がこう思ったのだ「インターネットには良いものもある、悪いものある」と。

この時代というのは今となっては想像しづらいかもしれないが、個人サイトが無限に増え続け、匿名掲示板はますますその勢いを増していた時代である。爆発的に増える個人サイトや無数に生まれる匿名掲示板の情報の中から「良い情報」だけをすくい上げるコストは明らかに増大していて、もはや個人の手には負えなくなっていた。

そこでまた誰かがこう考えたのであろう「じゃあ、識者が良い情報を選定してそれを並べればそこに価値が生まれるだろう」と。

キュレーションサイト……あるいはまとめサイトというのは、そういう理屈であった。

誰もが情報を発信する側になれるという時代がwebの第一段階であるならば、増えすぎたその情報を整理・編集し、よりよい形で届ける……これがwebの次のステップであると考えられていた時期が過去確かにあったのだ。

無論、前例がなかったわけではない。

個人webサイトの時代から界隈にはその日のニュースを集約する個人ニュースサイトというものが存在していたし、それは各々の管理人のフィルターを通して選別された情報でもあった。このニュースサイトにも、各ニュースに対して管理人のコメントが二言三言付いたりするタイプと、完全にリンクに徹する羅列型があったが、どちらも管理人がフィルタリングした情報を再配信していたことは同じである。

また、初期のディレクトリ型と呼ばれたYahoo!やAll Aboutなどもこうした方向性であり、これらはある程度そのジャンルに精通したキュレーターが掲載に値すると感じたサイトをリンク集形式で紹介しているものだった。それ故に当時のYahoo!掲載というのは厳正な審査を通過し価値が認められたに等しいわけで、個人サイトにとっての金看板でもあった。

こうしたキュレーションをこれまで以上に大々的にやって、インターネットの大トロの部分だけを切り出せば良い……そういう考えが生まれたのはある種自然なことだろう。

……が、この考えというのはわりとあっけなく瓦解する。

その原因のひとつがいわゆる「狭義のまとめサイト」である2ch(※当時の名称)まとめサイトのお行儀の悪さにあったのは間違いないだろう。そもそも2chに書き込んでいる側としては、2chでネタを披露したところで別にそれで金銭を得られたわけでもなかった。もともと彼らは過去商業主義的既存メディアから「便所の落書き」扱いを受けていたこともあり、アンチ商業化・非商業主義の立場を取る者が多かった。匿名であるが故にその栄光はスレッド内に限られたものだったが、それでもそのスレッドのヒーローになれるのであればそれで良しというユーザーも多かった。むしろ「誰も得しない」という方針で馬鹿をやることで団結をしていた節さえある。この当時はインターネットは自由かつ無料であるべきという考え方が今よりもずっと根強かったのである。

しかし、こうした盛り上がりを利用する輩が出現し始めた。これこそが2chまとめサイトである。とはいえ、先に述べた通りこの頃にはもはや個人では話題を追い切れなくなっていたため今ホットな話題を抜き出してキュレーションするという意味ではまとめサイトの存在意義がないわけでもなかった。話題のスレッドとなれば流速も速く、また議題に関係ない茶々や煽りも多発する2chにおいては、ネタ元となるスレッドを読むだけでも多大な労力が発生する。そういった意味ではまとめサイトによるキュレーションは当時のニーズにマッチしていた。

ただ、まとめサイト側はこの時期流行りだしたアフィリエイトをサイトに組み込むことで、他人の褌でメイクマネーをも実現していた。現在は若干風向きが異なるかもしれないが、この当時は原価(?)がタダの書き込みを勝手にパクって金儲けをするというのはとんでもないという考え方が一般的であった。

そして、この金銭の発生はまた別の悪影響を与えた。こうしたサイトがひとたび金儲けの道具となければ、よりPV(金)を稼げる方向へ突き進んでいくのが自然な流れであり、行き着く先は先鋭化とゴシップ化である。

当初は「話題を見やすく加工して提示してくれること」に価値を感じていた人達も、このような動きにいつしか疑問を感じ始める。特にある時期のまとめサイトはよりアフィリエイト収入を得られるよう、ユーザーを引きつける為にセンセーショナルな見出しを掲げ、対立を煽りまくった。その結果内容はウソ・大げさ・紛らわしいを地でいくものとなり問題視されるようにもなった。また、先に述べた通りこの結果金銭という形で恩恵を得るのはネタ元の数多の名無しの掲示板投稿者ではなく、まとめサイト管理人のみなのである。

そしてこれらの問題は、インターネット民がかつて嫌った既存メディアの姿とも重なって見えた。まとめる側が数多くの名無したちの上に立ち、彼らの成果である書き込みを勝手に収益化して上前を跳ねる……もちろん投稿者には何のメリットもなく、かといって防ぐ方法も(当時は)ない。かつて既存メディアがインターネット上の情報をパクっては雑誌に掲載して自分たちの収益にしていたのと全く同じ構図がここにあった。また、2chまとめサイトに限らずnaverまとめ(サービス終了)やTogetter等でも恣意的な編集が行われていると疑われた例は多々あり、これもまた、既存メディアにおける編集の問題と全く同じであった。

かくして、匿名掲示板の一部は反まとめサイトの姿勢を打ち出すようになり、これらの盛衰と同時にまとめサイト以外のキュレーションに対する期待もまた萎んでいったように思える。結局のところ、全部まとめてこれらキュレーションは他人の褌で相撲を取る行為──もっと言えば、他人の成果物の上前を跳ねるクズの行為──であると結論付けられてしまったし、不倶戴天の敵として認知されたのだ。かつては確かに有用性もあったというのに、である。

そういった意味では、少なくともインターネット上でのキュレーションの時代は終わったと言って差し支えないだろう(あるいは切り抜き動画がこれらの末裔なのかもしれないが、そちらについては他に任せることとする)。

「凝ってる」という評価軸

都会のラーメン屋に行くと、その店のラーメンがいかにこだわりを持って作られているかがひたすらアピールされていることがある。

スープは〇〇と△△をn時間煮出して……とか、麺はナントカ製麺所に特注のn番刃で依頼して……とか、そういうやつである。壁に書いてあったりメニューに書いてあったりは様々だが、ともかくそのようなアピールが見られることは多い。

さて、これらの情報過多さやそうした外部情報にレビューが引っ張られがちな人々についてはそのものズバリ「人は情報を食っている」という評がとある漫画にあるし、それはその通りだとも思う。

とはいえこれも否定的な話ばかりではなく、実際に美味しい食事に対してこれこれこのような理由があって美味しいのですという説明があり、それにより知的好奇心が満たされることが一種の付加価値として機能していることは確かだろう。

ただ、そのような能書きの多いラーメン屋が皆美味しいのであればそれでもいいのだが、困ったことに微妙なものに当たることもある。

大満足で美味しいとは言えないし、かと言って食えないほどに不味くもない。しかし支払った金額と数多の能書きを見る限りでは明らかにその期待値には届かない──そんな存在である。

個々の要素にこだわりが込められていることは痛いほどわかるのだが、しかし悲しいかなそれがトータルの満足感には寄与していない。むしろこれだけやってコレかよという気分になる……という経験は読者諸兄にもきっとあるだろう。

さて、このようなラーメン屋を貶すだけなら簡単だ。例えばレビューやブログに書くとすれば、不味いとは言わないまでも期待外れだったとかそういう感想で済むだろう。しかしこれが他人に勧められた店で、感想を求められたとしたらどうだろうか。そうなるとストレートに貶すのも憚られるところである。

というわけで、ここで新たな評価軸として「凝ってる」を提唱する。

「凝ってる」はその過程を評価するものである。ラーメン屋が掲げるこだわりを全力で肯定し、そこに対してはきちんと評価する。そしてそのこだわりへの評価をもって、なんとなく肯定するのである。実際に彼らは凝っておりそこの努力は認めざるを得ない。何より嘘は言ってない。

not for meではあるが全否定でもない、そんな言葉である。活かせるシーンはあまり想像したくないが、きっとその時には力になれるだろう。知らんけど。