インターネット

無名サイトのつづき

繰り返すばかりの毎日だから

スポーツというのものがあまり得意ではない……というか、ぶっちゃけ苦手である。

いや、もっと言えばスポーツに限らず、生きる上での基本動作だいたいが苦手であって生きているだけでMPが減るような感覚さえ背負っているのだが、とりあえずはその中でもスポーツが苦手である。

あるときふと、何故スポーツが苦手なのか考えてみた。こうした話題では往々にしていわゆる運動神経の問題にすり替えがちだが、では運動神経の問題というのは何の問題をもって「運動神経が悪い」なのだろうか。そういうことについて考えてみたのが、ここから述べる話である。

結論から先に言えば、問題は「繰り返し動作の下手さ」に起因している。

ありとあらゆるスポーツにはあるべき姿や目指すべき姿というのが規定されている。それはより多く点を取ることだったり、より速くゴールを通過することである。相手が居る場合もあれば、一人だけのこともあったり、或いは同時にはプレーしていないが最終的にランク付けされる場合もあるが、概ねどのようなスポーツでもよりよい姿に向けて努力することが求められている。

さて、例えば野球を例にして考えてみると、このスポーツの基本動作として「ボールを所定の位置に投げる」「ボールが来たら捕球する」「バットでボールを打ち返す」あたりがプレーのための前提になるだろう。「スポーツが苦手」「運動神経が悪い」とされている人はもうこの辺りで早々に躓くことになる。例えば「バットに当たらない」とか「望んだ方向に投げられない」といった具合である。上手く打つとか速く投げるとか以前の問題である。

とはいえ人間誰しも最初は初心者であるし、バットやボールを握って生まれてくるわけでもないのだからゼロからのスタートというところは皆同じだろう。一般的には、そこら辺を誰かがキチンと教えた上で何度もトライ……つまり練習すれば上達するものだと認識されている。スポーツが苦手という人に対してまずは基礎をみっちりと教え込むというのも、こうした「練習すれば上手くなる」という指針に従ったものだと言って良いだろう。

そしてここで「繰り返し動作」の概念の登場である。

上手い人(ここではそれなりについていける人まで含む)というのは、こうした練習における繰り返しの中でのトライアンドエラーが上手い。例えばバットを振るときにどのくらいのタイミングで振ればいいのかというのをきちんと学習し、それにアジャストしている。だからこそ「何度も練習すれば上手くなる」のである。

しかし、これが「繰り返し動作が下手で、繰り返しの際の精度がまったく出ない」としたらどうだろうか。たとえばタメが長くて振り遅れているとしよう。毎回のスイングがまとまっていれば「もう少し速く振る」といったアドバイスで解決する可能性が高い。しかし毎回のスイングがバラバラ(≒繰り返し動作が下手)であれば、それはタイミングの問題とわかっていても結果はバラついてしまう。結果として、上手く行かないことになる。

となると、まずそのスイングの精度を揃えればいいのでは? と考えられるかもしれない。しかし「繰り返し動作が下手な者」にとってはいくら要素別に分解していっても、なかなか簡単なことではない。それは何故かと言えば、たまたまマグレ当たりで上手く行っても、次にそれを再現することが出来ないのである。「良いスイング」を精度良く再現出来ない。再現性のなさによって精度が出ない、その堂々巡りこそが繰り返しの下手さの原因なのだ。

言い換えれば繰り返し動作が下手な人というのは「成功を我が物に出来ない」のである。

学習というものはたいてい、トライアンドエラーに対する結果を受け止め、それを再現することで進んでいく。バットにボールが当たらないなら、タイミングを、振り方を、その他諸々を変えてみて、上手く行ったものを取り入れてそれを精度よく再現する、それの繰り返しと言えるのだ。

とはいえ、これは「個々の小さな成功は再現出来る(≒次回繰り返すことが出来る)」という前提に立っていることになる。ということは上手く繰り返せない人にとってはこれは死刑宣告にも等しい。

結果、繰り返し動作が下手な人は永久にアドリブを続けるか、精度の低い繰り返し動作を闇雲に続けることになる。もちろんそのうち何回かは良い当たりが出るかもしれないが、出たところで再度それを再現することが出来ないのだからどこまで行っても偶然どまりである。結果として、上達も感じられなければ楽しみもない、これをもって「苦手」の一丁上がりである。

そして成功を我が物に出来ない……自らの努力によっては何一つとして変わらない、仮に成功してもそれが偶然であるということは、とてつもない無力感を生むことにもなる。

というわけで案外日常におけるスポーツ以外の苦手意識もこれに起因しているのかもしれない。繰り返すばかりの毎日なんだから。

ホテルニュー

日本三大ホテルニューと言えば、もちろんホテルニューアワジ・ホテルニュー岡部・ホテルニュー塩原のことである。これらはいずれもCMにより人々に強いインパクトを残している。

ただ、ホテルニューは非常に幅広い概念のため、これらとは雰囲気を異にするホテルニューも存在している。例えばシティホテルの雄であるホテルニューオータニであったり、かつては同様にシティホテルの雄でありながら悲劇的結末に至ったホテルニュージャパン、またクラシックホテルとして名高いホテルニューグランドなどが代表的なところであろう。この辺りに関しては数あるホテルニューの中でも知名度・品格共にトップクラスにある(あるいはあった)と言って良いだろう。

また、地方に目を移してみればほぼ全都道府県においてその土地に応じたローカルなホテルニューが存在しており、こうしたホテルニューの存在は駐車場業界における一大勢力である月極と双璧を成すものである。

さて、こうしたホテルニューの数々であるが、実のところ本当にニューであるかというのはわりと怪しい。というか、現存するホテルニューはいずれも老舗であり、少なくとも2021年における「ニュー」ではない。こうした「ニュー○○」については、一般的には元になる何かがあり、それに対する新しいものとして命名されている。

既存に対するニューの例としては、家電量販店のコジマの例がある。往時のコジマは競合店の登場や既存店舗が手狭になると、近隣により大型のNew○○店を出店することが多かった。この場合は既存店舗に対するNewとなるので、まさしく既存に対して新しいのである。

とはいえ、この店名についてはビックカメラへの傘下入りとそれに伴うコジマ×ビックカメラ業態の展開により現在はほぼ消滅している。そして2021年現在においてNew○○店という命名の店舗が残っているのはむしろ同社の競合であるヤマダ電機の方だったりする。また、北関東YKKの中で残るケーズデンキにおいては類似の概念としてパワフル館が存在したが、これも現在は著しく数を減らしている。

このように、例に挙げた家電量販店においてはNewというのは概ね既存店舗に対するニューを意味していた。ではホテルニューもそうかというと、実は必ずしもそうとは言えない。

ホテルニューの中でも特に歴史の古いホテルニューグランドにおいては「かつて近隣に存在したグランドホテルの事実上の後継(経営者は異なる)としての命名という説があり、かつてのグランドホテルに対してのニューではあるものの、ホテルニューオータニやホテルニュージャパンに関しては(レトロニムとしての)ホテルオータニやホテルジャパンが存在したというわけではない。

こうしたニューに対するオールド(?)の不在というのは、日本三大ホテルニューにおいては下記のようになる。

ホテルニューアワジ → 前身となる旅館水月荘が同地に存在。

・ホテルニュー岡部 → 前身となる鬼怒川観光ホテルが近隣地に存在。

・ホテルニュー塩原 → 前身となる塩原東京ホテルが同地に存在。

……このように、実は日本三大ホテルニューにおいてはいずれも前身が存在したものの、いずれも旧称はそのものズバリのネーミングではない。

また、各地方に存在するローカルなホテルニューについては調査しきれていないが、こうしたオールドの存在しないニューにおいては設立時点において最先端という意味でニューと付けられていたのではないかと思われる。いわば新時代の施設としてのニューというわけで、ニューオータニやニュージャパンはこちらの用法と言えるだろう。

そしてこうした命名法についてはどこかクラシックな香りが漂っており、あまり現代的とは感じない。どことなく高度経済成長期というか、少なくともバブルくらいまでの昭和の雰囲気を感じてしまう方が多いのではないだろうか。

これにはバブル以降は横文字の名前が増えてくるというのもあるが、ことさらに新時代をアピールするような空気ではなくなったというのもあるのだろう。

こうした命名に一定の時代性を感じてしまう例は、何もホテルニューだけではないようで、同様の例としてアニメにおける「新○○」について書かれた記事を挙げておく。

rrr-lang.hatenablog.com

こちらに関しても用法が一定ではない(続編型とリスタート型と分類している)ものの、その「新」という言葉から受ける印象には懐かしさが感じられるとしている。

いわばネーミングにも時代感というか空気みたいなものが現れているのだ。とはいえ、実際のホテルニューは単一のチェーンではなく運営もクラスも形態も異なるし、それはアニメにしたって同様で、全然別の作品群である。

それなのにネーミングだけが同じルールに従っていて、一定の枠組みの存在や時代性まで感じてしまうのだから、なんとも面白い出来事ではないだろうか。

固体型色素増感太陽電池搭載 SMART R MOUSEを使ってみる

いつものようにネットをぶらついていると、このようなものを見つけた。

jp.ricoh.com

なんでも、リコーの開発した低照度(室内光でOK)で発電する太陽電池の製品化事例として、試験販売的にマウスを作ったとのこと。

で、こういう「新しいデバイスが出来たので応用ガジェット作ってみました」みたいなのはたまにあるのだが、日本企業がこうした新デバイスを採用したガジェットを作るとコストダウンの進んでないデバイスの値段が丸々載ってくるせいかだいたい高価になってしまい、一般人には手が届かないうちになんとなく入手不可能になってしまうというパターンが多い。そうした先進のガジェットの中にはそもそも一般人の購入は想定しておらず、業務用の試験導入前提みたいな値付けをしていたり、ひどい時には要問い合わせとなっており価格を知る術すらないというものすらある。

もちろんそうした製品は技術のショーケース的存在として「実用化出来たことを証明する」ということが第一義にあり、それを広く販売することをあまり想定していない節があったり、搭載するデバイス自体パイロット生産的で量産効果が出るはずもなかったりする。そういう意味で高価になるのは仕方ないのだが、このマウスに関してもそういう売る気のないガジェットかと思えば、実はそうではなかった。

その価格は直販サイトにもあるとおり税込みで1,628円と、正直仕様から想像していた価格の数分の一であった。

マウスとしての仕様は折り畳み式の無線モバイルマウスで(先の通り太陽電池なので)電池交換不要となっており、普通にノーブランドの折り畳み式のマウスが1,000~2,000円程度することを考えれば、これらの目新しい機能を搭載した上で1,628円というのは破格と言ってよかった。送料まで含めても2,000円を少し超える程度である。

会社の自席にはトラックボールを据え付けて久しいのだが、折しもテレワーク推奨の世の中である。使用頻度自体は低いがいざというときのためにマウスは必要という状況にあり、モバイル用にとずいぶん前に購入したロジクールのMX anywareはゴムは溶けホイールは錆びクリックは死んでもはや満身創痍であり、そういう意味でこの製品はピッタリであった。

というわけで12月の半ばに注文したのだが、ちょうど在庫が欠品したタイミングだったらしく手元に届いたのは1月の半ばとなってしまった。そこから数日仕事用PCで使用してみたので感想をここに書いてみたい。

初めに言っておくと、満足度はそれなりに高いが一方で弱点もハッキリしており、ある程度使う人を選ぶ製品であった。

さて、この製品はリコーの開発した固体型色素増感太陽電池を使用しており、販売もリコーの直販サイト上で行われているが、実際にデバイスを手がけているのはビフレステックという会社であり、この会社は太陽誘電の系列でもある。沿革を見る限りでは、かつてCD-Rを扱った人なら懐かしく感じるであろうあのスタート・ラボの開発部門が分離して設立されたそうである。

で、このマウスの特徴としては太陽電池はもちろんなのだが、太陽電池で発電した電力を貯めておくデバイスとしてリチウムイオンキャパシタを使っているという特徴がある。このリチウムイオンキャパシタを製造しているのが太陽誘電なのである。つまり、リチウムイオンキャパシタ太陽電池、両方の応用商品として生まれたのがこのマウスということになるのだ。

さて、実際のマウスとしての使い心地であるが、これはまぁ普通に使っている限りは一般的な折り畳み式のマウスとそれほど変わらない。おそらくこの価格なのでマウスとしての基本形はどこかのOEMメーカーにすでに存在しており、それの電源周りが(太陽電池+リチウムイオンキャパシタ仕様に)カスタマイズされた製品なのではないかと思われる。

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表面はヘアライン風の仕上げとなっており質感は頑張っている。手首側の凹みには太陽電池が収められている。

というわけで、無線の感度や解像度(1200dpi)などに特別の不満はない。スクロールホイールが押し込み可能なタッチパッドになっているのはあまり好みではないが、突出部をなくしコンパクトさを優先した結果であろう。無線ドングルも現代的な小型サイズだし、使用しない時は本体に磁石で貼り付けておけるようになっているのもこなれた作りである。

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購入当初は平置きした時にわずかに左右にガタつきがあり、ちょっと安っぽく、また扱いづらさを感じたものだが、これも後述の分解の際にソールを剥がして貼り直したところ改善してしまった。

また、このマウスは先の通り電源部分に乾電池やリチウムイオン電池を使用しておらず、一般的な電解コンデンサ程度のサイズのリチウムイオンキャパシタを使用しているため、非常に軽量に出来ている。ワイヤレスマウスの電源として一般的な単三電池であれば約20g/本程度の質量であることを考えれば、本機の公称60gという軽さは非常にありがたい。下記写真のうち、太陽電池パネルの下にある「TAIYO YUDEN」と表記のある部分が太陽誘電製のリチウムイオンキャパシタである。

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ソールを剥がすと後ろ半分を殻割り出来る

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配線が細いので分解はあまりやらない方がいいだろう

ちなみに基板のシルクにはLithosion Mouseの表記があるが、Lithosionというのは太陽誘電リチウムイオンキャパシタのブランド名である。

あと、このマウスの仕様上スリープモードからの復帰はマウスボタン一度押しであり、他社(例えばロジクール)のマウスのようにカーソル移動だけで復帰は出来ない。これに慣れずにマウスを振っては仕様を思い出してボタンを押すというのがよくあった。電力消費に厳しいからかスリープモードに頻繁に入るため、人によっては非常に気になる点かもしれない。

ただ、そうした細かな難点はあれど、使用頻度自体はさほど多くないがいざというときの為にマウスはあった方が良いというニーズに対しては非常にピッタリとハマる製品なのではないかと感じた。テスト販売的な先進ガジェットにしてはコストパフォーマンスもよく、驚いたことに十分実用的な製品であった。

……で、ここからはちょっと注意すべき点も書いておく。この辺りが納得出来るのであればおそらく買って損はしないだろう。

まず、本製品の電池持ちについては販売ページでは「1日1時間程度のパソコン操作でマウスを利用する際は充電不要で利用できます。(1日12時間600lxの照明が照射されていることが条件)」とある。

この表記を読むと、まるで充電せずにずっと使い続けられるかのように感じるのだが、注釈では「パソコンを使用中に、マウス操作を5%程度行う場合」とある。この5%というのは実は他社測定条件と比べても結構甘い見積もりである。例えばマウスをはじめとした周辺機器メーカーであるエレコムの場合、自社製品の電池寿命測定時には一日8時間利用、マウス操作の割合は20~25%として算出しているとある。

qa.elecom.co.jp

こうした例からすると1日1時間(のうちマウス稼働時間5%)、かつ12時間照明が当たり続けている環境というのは逆にレアなのではないかと思われる。もちろんリチウムイオン電池や乾電池を使用する機種と比較した場合に単純な容量では見劣りしてしまうが故多少割り引いて考える必要はあるのだが。

……で、実際どのくらい使えたかだが、こちらの環境下ではフル充電から4~5時間といったところであった。たまの作業であればこのくらい持てば許容範囲ではないかと判断したが、一方で丸一日すら使えないのかという感想を抱く人もいるだろう。こればっかりは使い方しだいである。

そしてここから注意点その2なのだが、電池が切れて光学センサーが点灯しなくなったマウスに午後いっぱい室内光を当てても再度電源が入ることはなかった。つまり、一度電源が切れたらUSBで充電しないと再起動は出来ないものだと思った方がよい。

そしてそういった特徴もあってか、本製品にはマグネットタイプのUSB-Cショートケーブルが付属しており、リチウムイオンキャパシタの特性もあってか90秒の充電でフル充電が可能となっている。

……つまり、本機の実用上の特徴というのは、実は「ものすごく充電が速くて、太陽電池で充電を多少補助出来るマウスである」ということなのである。決して太陽電池だけで半永久的に使い続けられるマウスではない」のだ。実のところ、太陽電池はもちろんないよりはあった方がいいが、それだけで潤沢な電力を供給出来ているわけでもないのである(少なくともゼロからの起動には足りない)。

ただし、何度も言うようだが太陽電池はないよりはあった方が確実にマシであり、充電の補助として役に立っているものと思われる。なのでモバイル用途以外にも、例えば常時稼働だが保守時にしか入力機器を使用しないPCなどの側にお守り代わりに置いておくには最適な製品なのではないかと思える。

あと、マグネットタイプのUSB-Cケーブルは実のところ単体で入手しようとしても数百円~千円程度しており、このマウスが1,628円であることを考えれば破格である。正直マウスが使い物にならないと判断したとしても、このケーブルだけで数百円分は元を取れるだろう。というかこのケーブルで90秒繋げば、そこからまた数時間マウスは使えるのだし。

というわけで、用途を考えれば非常に満足しているのだが、その満足の中にはやはりいくらか「先進のデバイスを使用したガジェットを使いこなしている」という自己満足の部分が含まれるのも確かである。そういう意味では、こうした手の届く先進と言える、コストパフォーマンスの高いガジェットが増えることを今後も期待している。

なにをいまさらEX-TR70

日の当たってるんだか当たってないんだかすらも微妙なデジカメを地味に紹介する不定期連載(ということにいつの間にかなってしまった)「なにをいまさら」シリーズだが、今回はいつにも増して今更感が漂っているのではないかと思う。

なにせ今回取り上げるのは、タイトルにもある通り──今となってはデジカメから撤退してしまった──カシオ、それも海外専売のデジカメだったEX-TR70(2016年発売)だからである。考えてみれば、このTRシリーズほど数奇な運命を辿ったカメラも珍しいのではないかと思う。その特異なスタイルから当初から国内ではイロモノ扱いされており、後期には自撮り用カメラとしての性格を強めたことや、マニア向けのラインナップを持たないカシオ製ということもあり日本のカメラ好き層からは半ば無視されているシリーズである。

さて、もうみんな忘れていると思うのでここで簡単にカシオTRシリーズの歴史を振り返ってみたい。このシリーズの初代機は2011年2月に発表されたEX-TR100なのだが、これは発表年月からも分かるとおり、東日本大震災の影響をモロに被ってしまい発売が延期(4月→7月)となり、いきなり国内では影の薄いモデルとなってしまった。

続くマイチェンモデルのEX-TR150(2012年4月)はこうした動きもあって予め出荷も絞られていたのか、前代未聞の「発売日直前に販売終了アナウンス」という事態が一部で話題になった。このためほぼ店頭にも並ばないモデルとなり、やはり知る人ぞ知るカメラとなってしまった。

そして2013年7月のEX-TR15が日本国内に正規に流通したモデルとしては最後になったのだが、こちらも3000台×2の限定販売となり、当然ながら店頭に並ぶこともなかった。これ以降日本国内では流通しておらず、後継機は海外専売となった。以上のような経緯からマトモに国内で人目に触れたのはほぼ初代モデルのみという、かなり変わった立ち位置のカメラである。

とはいえ、カシオのデジカメ撤退時の挨拶文においても、QV-10EXILIM、そして最終機となったG'z eyeと並んで、いわばカシオの代表的モデルとして掲載されていることからも分かる通り、実はこのシリーズ、日本以外ではきちんとファンを獲得しており、カシオを代表するシリーズの一つになっていた。特に中国を始めとしたアジア圏では自撮り用として確固たるブランドを築き上げており、国内市場での存在感のなさとのギャップは度々話題となったほどだ。

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※じきにこのページも消えるかもしれないので画像で貼っておく

さて、そんなカメラオタクの興味は引かなそうなTRシリーズ、それも海外専用モデルであるEX-TR70を何故手に入れたのかだが、これには深い訳がある。

安かったから買った。以上である。

──もう少しだけ詳しく話すと、先頃閉店したビックカメラ池袋東口カメラ館中古カメラコーナーにおいて、このカメラはずいぶん長いことガラス棚の主になっていた。このカメラがアジア圏で話題になっていた頃にはすでに置いてあった気がするので、おそらくはインバウンドの需要も当て込んで入荷したのだがアテを外して長期在庫化してしまったとか、おそらくそんなところだろう。

なにせこのカメラ、海外では相当な高級モデルであった。一時期中国ではこのシリーズは10万円を超えていたということもあり、当初のビックカメラでの値付けもそれを反映してなかなか強気なものだったのだ(もちろん、海外専売モデルなりのプレミアでもあろう)。……そして、そうした強気の価格が災いしたのか、カシオのデジカメ撤退どころか、ビックカメラの閉店ギリギリまで在庫として残ってしまい、最後にはとんでもなくお買い得な値段になっていた。なので購入したという次第である。

というのもこのカメラ、世の中に溢れる「自撮りカメラ」としてのくびきを外してみると意外なほどマニアックな仕様なことに気付くのである。撮像素子は有効1,110万画素で1/1.7型の裏面照射CMOSとコンパクトデジカメとしては大サイズだし、レンズは21mm F2.8相当の超広角単焦点レンズである。

そう、アクションカムなどの動画カメラを除けば、20mmクラスやそれ以下の超広角単焦点を搭載したカメラというのは実は非常に少ない。現代ではシグマdp0、銀塩まで含めてもあのリコーGR21があるくらいで、ほとんど類例がない仕様なのだ。まして、手のひらに載るようなサイズとなればこのシリーズが唯一無二の存在である。

そして21mm相当の超広角レンズが気軽に持ち歩けるとなれば、標準レンズやズームレンズを付けたレンズ交換式カメラのお供にもピッタリなのではないか……と、つまりはこのようなところが購入の動機になるわけである。もちろん懐の痛まない範囲の価格あってのことであるが。

というわけで、しばらく鞄に潜ませて使ってみたところ実に様々な気持ちにさせられたのでこうして記事にしている。つまりここまで前フリ。長かったな。

使っていてまず感じたのが、先にも述べたこのカメラの複雑な立ち位置である。

前提として、このカメラ日本では発売されていないのである。されていないのだが、箱にはさも当然のように日本語表記があるし、メニューも日本語に切り替えることが出来る。ソニーの海外モデルなどでは日本語設定自体がオミットされていることもあるので、この仕様にはビックリした。もちろん日本語にしてしまえば、多少変わった操作はあるものの至って普通のデジカメである。ちなみに、末期のカシオ製としては大変珍しい日本製である。

初代の頃から超広角レンズとタッチ中心のUI、そしてそれを取り囲む金属製フレームという構成は変わらないものの、白塗りのフレーム等でややオモチャっぽいところもあった初代に比べると、このEX-TR70はだいぶ落ち着いた質感になっている。さすがは海外では高級(?)デジカメだっただけのことはある。

なお、このカメラハードウェアキーは電源とシャッターの二つしかなく、基本的にはタッチUIで使うカメラである。静電式のタッチパネルで感度もそこそこなので使っていてさほどストレスにはならないが、いかにもスマホ的である。シャッターキーは通常のカメラとは異なり液晶と同じ面に付いている。半押しも可能なタイプのキーだが、カメラを構えて奥行き方向に押し込むというのはなんとも慣れないため、最終的にはタッチシャッターを使うことの方が多かったことをお伝えしておこう。これは通常のカメラのシャッターが来るような位置(カメラ外周)には金属製フレームがあるための仕様だろう。

先に述べた通りこのカメラは自撮り用としてアジア圏で大ヒットしたので、基本的にはそれに向けて進化していった機種である。とはいえ、今回は自撮り用として買ったわけではないので、期待するポイントとしては「超広角レンズ搭載コンパクトデジカメとしてどのくらい使えるか」である。 

そういう気持ちで使い始めると、既存のカメラの延長線上として使うには主に形状と操作の面で気持ちの切り替えが必要になったのも確かだった。しかし余計な要素がない分スマートフォンで撮り歩くのともまた違った使い心地であり、月並みな言い方かもしれないが、これは両者の中間に位置するカメラであるという感想を抱いた。

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実際の作例としてはこんなところだが、これが一画面に悠々入るというのはやはり超広角レンズならではであり、使っていても中々面白い。

あまり画質の話をするカメラではないかもしれないが、かといってあんまり写りが良くないというのでは使い続ける意味もない。そういう意味では、期待していたところをそれなりにクリアはしている。とはいえ、単焦点レンズであったり比較的大サイズの撮像素子であったりというスペックから勝手に期待しすぎていたところはあったのかもしれない。実際は結構逆光に弱いし、上記の写真では右端に行くほど光点は変形してしまっている。

……とはいえ、光点が目立つ夜景やイルミネーションというのは、カメラやレンズにとって厳しい条件であることも確かなので、あまりうるさく言うつもりもない。このくらい写れば十分、そう思わせるレベルには達していると感じた。

そうそう、逆光といえばあまりにも光芒が派手に出るので、流石に何かおかしいぞと思ったら、レンズが剥き出しのせいで表面に付着する手指の脂にひどく敏感だったということもあった。

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写真はその中の一枚だが、ここまでくるとかえって芸術的ですらある。とはいえ夜景ではひどく目立つので、以降は度々レンズをハンカチで拭き取ってから撮影した。これもレンズが剥き出しになっていて当たり前というスマートフォンの文脈を連想させる要素である。カメラ文脈からするとレンズ剥き出しはおっかないのだが、一方でスマートフォンからすれば今更そんなこと気にもならないという文化の違いが存在するのだ。ただ、先の通り露骨に写りに影響するので何らかの防汚コートは欲しかったかもしれない。

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手指の脂を抜きにしても逆光耐性やハロ・フレア耐性は正直よくない。この写真でも画面外の街灯の明かりをモロに拾っているし、先の船の写真も右側の電飾のすぐ横にゴーストが出ている。

光源に対してフレアが入りやすい以外で目立つ弱点としては、明らかに陣笠形状の見られる歪曲収差である。このせいか水平垂直をキッチリ収める用途よりはアングルの自由度を生かした構図の方が適しているように思えた。まぁメイン用途である自撮りからすれば端が多少歪んでいたところでたいした問題ではないし、そもそも21mmという超広角はそもそも他にないのだから受け入れられる範囲だろう。そういうのは高価なレンズ交換式の領分である。

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実際明らかに樽~陣笠なので、直線的な被写体の場合はLightroom等で補正したほうがスッキリするが、何度も言うがそういう使い方の方がイレギュラーであろう。これは本来であれば若い女性の使う自撮り用カメラなのだから。

そして、そういったイレギュラー(?)な使い方をしていると、コンパクトデジカメとスマートフォンの中間に位置するが故の微妙さにも気付く。ぶっちゃけ、普通のカメラとして使う分にはグリップのない形状のため、どうにも手の中で収まりが悪いのだ。

具体的に言うと、各面に取っかかりのない形状なので開かずに使うと落としそうで怖いし、かといって可動フレームがそれほど便利だというわけでもない(あくまでも普通のカメラとして使った場合なのであしからず)。

もちろんフレーム側を持ってバリアングル的に使用したりも出来るのでそういう意味での使いようはあるのだが、そういうシーンばかりでもない。しかし開かずに撮るとあまりにもフラットなので落っことしそうで怖いのである。幸いストラップホールもあるので、何かヒモを付けた方が良いかもしれない。

なお、こうした葛藤から試行錯誤した結果、最終的に撮り歩く際はフレームを半開きにし、開いたスキマから指を突っ込んでホールドするという方法を考案した。こうすると引っかけた指が邪魔で物理シャッターキーが押せないので、やっぱりタッチシャッターがメインになるのである。

というわけで、このフレーム回転機構は前回のDSC-R1の上面バリアングル液晶と同様目新しいが別に便利なわけでもないかなという辺りの感想に落ち着いたのだが、一方で金属製フレームの剛性感だとか、ラッチの心地よさというのは手で弄ぶガジェットとして大事な要素であり、そういった面で安っぽさや強度面の不安を感じることは一切無かった。

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なお、先の通りハードウェアキーがないのでカメラとして撮影時に弄るところは少ないのだが、撮影モードにはカシオ機おなじみのベストショットであったり、アートフィルター的なモードがあるので、そこら辺を使いこなす楽しみというのもあったりする。こうした部分はしっかり「カメラ」である。

そういう意味では、カメラバックの隅に押さえの超広角としてこのカメラを一台突っ込んでおくことで広がる世界というのは、予想以上に大きいのではないかと思っている。超広角レンズは嵩張るし、明確な目的を持っていないと持ち出さないことが多いが、一方で撮影地で「もっと広角で撮りたい」と思うのもまたよくある話である。そんな時の保険として、レンズ交換式カメラともいい補完関係を築けるのではないだろうか。

……というのが、カメラ的な視点から見た時のEX-TR70評である。

また、ここまでは既存カメラと組み合わせた時にどうよという話であったが、このカメラはもちろんスマートフォンと組み合わせてもよい。カシオとしては末期のカメラなので、無線LANBluetoothを利用したスマートフォンへの自動転送機能があり、いわばスマートフォンのコンパニオンデバイスとしても使えるようになっているのだ。

そしてこのカメラが出た当初スマートフォンは現在ほどカメラ重視ではなく、またほんの数年前までは超広角レンズ搭載モデルなども存在していなかった。今手元にあるスマートフォンはiPhone7なのでまさしく数年前の標準的(?)環境だが、メインカメラは概ね28mm相当であり、ここにEX-TR70の21mm相当が加わることは画角の面でも明らかなメリットがあったのである。

……あったのだが、今となってはそれも昔話になってしまったかもしれない。ほとんどのスマートフォンが多眼カメラ化を進める中で、以前だったら考えられなかったような広角カメラが次々に搭載されているのが2021年現在なのである。例えばiPhone12では13mm相当という驚異的な超広角カメラを搭載している。そう考えると、EX-TR70の21mm相当や1/1.7型撮像素子というスペックも今や少し霞んでしまう。

とはいえ、TRシリーズはそれらよりも遙かに先に登場していたのだし(2011年の初代から21mm相当だった)、スマートフォンの自撮り機能が向上したのもわりと最近ということを考えれば、やはりこれが時代に先駆けたカメラだったことには疑いの余地がないだろう。

繰り返しになるがTRシリーズの初出は2011年、ほぼ最終機となったEX-TR70は2016年モデルであり、更に言えばカシオのデジカメ撤退は2018年の出来事である。そしてスマートフォンにおいて超広角カメラが身近になったのは、明らかにそれ以降の出来事であった。これはカシオが明らかに時代の先を行っていたと評すべきであろう。スマートフォンに追いつかれたからこその撤退でもあるのだが。

そしてそんなカメラを2021年になってからこうしてレビューしているのだから、まさしく「なにをいまさら」といった話なのである。

フローとストック

かつてインターネットが個人サイトで溢れていたころ、界隈には狂人がウヨウヨしていた。

──彼らはwebサイトの管理人であった。

彼らはなんの見返りも期待せず、持てる知識や経験を惜しげも無くさらけ出し、誰に頼まれるでもなく自らのwebサイトを充実させていった。そこにはまるで損得勘定など存在しないかのようだった。いや、むしろかつての個人webサイトにマネタイズ要素などなかったので、少なくとも金銭的にはマイナスだっただろう。それでもコンテンツを生み出していたのだから、やはり彼らは一種の狂人そのものであった。

もちろんそこには、すごいwebサイトを作り上げればやがて有名サイトになり、管理人もまた有名人になれる……というインターネットドリーム的なものが存在したのも確かである。ただ、当時のインターネットドリームはせいぜい界隈の有名人、登り詰めても書籍化がせいぜいといったところで、例えば今のVtuberのようにスパチャでメイクマネーといったようなダイレクトなそれではなかった。

そしてそのような(今の目線で見れば)ささやかな成功ですら、ごく一握りに与えられたご褒美でしかなく、結局のところ世の中にある大半のサイトはたいした反応もなしに続けていかざるを得なかった。

多くの無名サイトは、だいたいそんな感じだった。

そして、当時のインターネットで得られる反応といえばせいぜいwebカウンターやアクセス解析程度のもので、あとは掲示板にたまに書き込みがあるかどうかというところだった。

とはいえ、よほどの人気サイトでないかぎり反応というのは希で、多くの場合はそんなものがなくても続けていく、というのが当時の管理者たちの矜持であったように思える。

さて、そんな個人サイト全盛時代もそのうちに終わりを告げ、いつしかSNS全盛時代となった。SNSの功罪についてはいくつもあるだろうが、かつての個人サイトを知る身としては、反応のダイレクトさとスピードの違いが最も印象に残っている。

例えば、リアルタイムに確認出来るfavやレスの存在が挙げられる。もちろん当時からweb掲示板等で半ばリアルタイムのやりとりは存在していたが、SNSにおいてはある程度好意的な反応が返ってきやすく、かつリアルタイムという点で大きな意義があった。日本のわりと黎明期のTwitterにおいてはそれこそ赤ふぁぼ(5人以上からfavをもらったツイートを指す)で一喜一憂するなんて慎ましいものだったが、いつのまやらユーザーも増え、今やひとバズりで数千や数万のfavが付くような世界になっている。

しかし、こうしたSNSの隆盛はインターネットの速度自体を加速させることにも繋がった。「イマ」のネタにフォーカスして盛り上がるという楽しみ方が続いた結果、話題は刹那的になり、その瞬間にしか盛り上がらなくなったようにも感じられるのだ。話題は常に流れていき、短い旬が過ぎたらその話はもうおしまいである。あとから追いかけようとしても大変に検索性が悪い。

しかし、流れている間はリアルタイムでコメントやfavが付くのだから、その流れに乗ること自体は大変心地がいい。かつてのインターネット(個人サイト)では来なくて当たり前だった反応というものがガンガン来るのだから、これだけでも発信者に取ってはすさまじい快感である。

こうしたひたすらに流れていくそれは、言ってみればフロー型の情報だと言えるだろう。現代のインターネットの楽しみ方はフロー型で、かつ流れは大変に早くなっている。

一方で、かつての個人サイトやブログは、そこに情報を置いておくことで──ひょっとしたら今必要な人はいないかもしれないが──いつか誰かがこの情報を探し求めた時に光明となる、そんな期待も込めて情報が書き残されていたように感じる。

これはストック型の情報と言い換えてもいいだろう。もちろん、このような期待によって置かれた情報が活用されるかというのは未知数であり、ひょっとしたら全てが活用されることはなかったのかもしれない。

しかし、例えばPCのトラブルでようやく解決のヒントを見つけた時──あるいはあまりにもマイナーでマニアックな趣味を極めようとした時──検索に検索を重ねた末、諦めかけたその先に先人の足跡を見出したという経験はおそらく多くの人が持っているのではないかと思う。それらはひょっとしたら、そうした先人たちが見返りを求めず残した情報だったのかもしれない。

そういう意味では、このブログは完全に狂人のものである。

実際、SNSに書けばきっとそこに少しのfavが付いて、そして多分それで満足出来る。それでも尚こんなことをここに書き残すのは、現在のブログというものがストックの情報であり、誰に届くかもわからない一種のボトルメールであるからなのかもしれない。

願わくば、この記事もどこかの無人島で寂しく過ごしている人に届きますように。