インターネット

無名サイトのつづき

選択肢なき選択(もしくは選択なき選択肢)

アドベンチャーゲームRPG等において、会話シーン中に選択肢が表示され、その選択によってストーリーが分岐するものは多い。というか、ほとんどのゲームがこの選択肢分岐を採用していると言っていいだろう。

ゲームが他のメディア(例えば映画やアニメやドラマ等の映像作品)と異なる点といえば、ゲームはインタラクティブな(双方向性のある)メディアという点である。これを先の例に照らしてみれば、ストーリーを流れるまま傍観する他にない視聴者という立場で視聴する映像作品に対して、ゲームのプレーヤーは選択肢があれば主体的に介入することが出来る。もちろん選択肢のない部分では視聴者的な立場となるが、それでもプレーヤーが主体性を持って選択する権利があるというのが、他のメディアに対するゲームの大きな違いと言って良いだろう。

この選択肢による分岐を煮詰めたのがサウンドノベルなどのジャンルで、選択次第でまったく別のストーリーが展開されるなど、選択肢自体がシステムの根幹を成すものとなっている。

とはいえ、この選択肢というのは登場したら必ずストーリーの分岐が発生することを意味するものではない。単に説明の順番が変わるだけだったり、結局特定の返答をするまで無限ループしたり、どれを選んでもストーリーの分岐には無関係というものも多々ある。

しかし、そうかと思えば一見何気ないような質問の中に実はとんでもない伏線が張られていたり、序盤のおよそ分岐に無関係そうな質問が後から効いてくるようなゲームもあったりするので、それらも含めて選択肢に秘められた真意を探っていくことがゲームの楽しみ方の一つであると言えるだろう。

さて、こうした中で個人的に気になっているゲームの演出手法がある。

それは、選択肢のポップアップが出るものの、実際は一つしか選択肢がなく、プレーヤーはそれを選ぶことしか出来ない……というものである(この手法に何か名前が付いてるのかどうかは知らない。便宜上ここでは単一選択肢と呼ぶ)。何処が元祖かは知らない。

さて、よく考えてみるとこの単一選択肢はヘンである。

通常の選択肢であれば、いくつかあるうちのどれかを選ぶ……ということがプレーヤーの文字通り選択を示し、それによって話は分岐したりしなかったりする。しかし単一選択肢の場合、それしかないということは、結局プレーヤーはそれを選ぶしかないし、それによる変化もないはずである。

否応なしに選ばされるので、ストーリーが分岐するか否か、物語が動くか否かという点においてはこの選択肢は無くしても構わないのではないか、というわけである。また、メッセージ送りを連打していれば(通常の選択肢とは異なり)どれも同じ結果となる。ひょっとしたら選択肢があったことにも気付かないかもしれない。

しかし、それでもこうした単一選択肢が存在するゲームは多い。それも、ストーリー上の重要な盛り上げどころに配置されたものも多々ある。

これは一体なんなのかといえば、つまりはこれが先に述べたプレーヤーの主体性を表現する手法だからである。

例えばこんなシーンがあるとしよう。プレーヤーはそれまで共に戦ってきた仲間を、とある理由から処刑しなければならない。辛い決断を表すシーンにおいて「選択肢が出ない為ただメッセージを送っているとコトが終わっている」のと「辛い決断だが、それでも『主人公でありプレーヤーが決めた』ことを明確化する為に単一選択肢が出て選ばせる」のかでは、その行為に対するプレーヤーの気持ちは異なるはずである。

つまり、ともすれば傍観者側に寄りがちなプレーヤーを作中に引き戻す策であるとも言えるわけだ。キャラクターが勝手にやったのではなく、あなた(プレーヤー)が選んだことであると。仮にそれが、選択肢なき選択だったとしても。

考えてみれば、このようなことは現実にもよくある。事実上「はい」としか回答出来ないシーン、真意は別として形式上謝らなければならないシーン……様々な有形無形の圧力や配慮から選択肢は狭まり、誰の意思かも曖昧なまま一択を選ばせられる(?)シーンが存在する。こうした選択に主体性もクソもないのだが、その場合も発言の責任は自身に被せられる。

そういった意味では、ゲームの単一選択肢もまたリアルな演出の一つと言えるだろう。

逆に言うと、ゲームでよくある「明らかにギャグで用意された選択肢」は現実では普通出来ない回答なわけで、これはそのような回答をすることによる一種のスリルを疑似体験させていると言えるだろう。

どちらにせよ、たとえ一つしか選択肢がなかったとしてもそれを「選ばせられる」シーンは現実にもゲームにも多々あるし、それによって話は何も変わらないとしても、自身がそれを選んだという事実は重くのしかかるのだ。

この主体性のない選択が、かえってプレーヤーの主体性を意識させるのである。