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無名サイトのつづき

パロディの彼方に

2ch(現5ch)の名スレで「ジブリタイトルを組み合わせて一番面白い奴が優勝」というものがある。

アレをいろんなところで見る度にいつもモヤモヤしているので、今日はそれについて書き残しておこうかと思う。久しぶりにここに帰ってきて最初にやることがそれかよと言われると立つ瀬がないが、まぁそれはそれとして。

詳しくは先のリンク先を見て頂きたいのだが、このゲーム(?)は途中で大きくゲーム性が変質している。詳しくはリンク先などを参照してこれまでの優勝作品をザッと眺めて欲しいのだが、簡単に言うと、パロディタイトルを作る上で以下の二つのどちらの方向性を取るかという問題である。

1.「最小限の改変で全く別の印象を持つタイトルにする(初期 1~5回の優勝作品の方向性)」
 例 耳がきこえる(第1回)・豚トロ(第2回)・山田なりの恩返し(第5回) など

2.「タイトルを単語・文字単位で切り刻んで長文を作る(6回目優勝作品から登場しその後の主流に)」
 例 山田君のティんぽこからトロトロとエッティなものが(第6回)
   宅急便 山田のおなホをとなりの千尋んち二とドける(第24回) など

さて、個人的には前者の方向性の方が好きだし、レベルも高いと思えるのだが、一方で第6回以降の優勝作品が主に後者の方向性であることから、一般的な(?)ウケは後者のようである。

では何故、一般ウケしない前者の方が好ましいと感じるのか、理由は三点ほどある。

まず一つ目の理由。そもそも「ジブリタイトルを組み合わせて」ということはこれまでに発表されたジブリタイトルという制約の中で面白いタイトルを作ることが目的である。ある種制約の中での頭脳戦というわけだ。

しかし、ジブリタイトルは相当の数があり、また年々増えていくため、使える文字自体は比較的自由度が高い。故に、文字単位で切り刻んでしまえば比較的いろいろな文字が使えるが、文字種は混在してしまう。例えばカナとかなが混ざったり、漢字の読みを無理矢理当てはめることになるわけだ。

優勝作品における活用例としては第6回の「ティんぽこ」がその嚆矢であるが、本来であればストレートに「ちんぽこ」としたかったであろうところを、当時はまだ「ち」が使えない(第6回は11年5月開催・タイトルに「ち」が入る『風立ちぬ』の公開は2013年)という制約から「ティ」が充てられている。

しかし、本来であればストレートに「ちんぽ」や「ちんぽこ」としたかったであろうところを無理矢理かなカナ交じりで「ティんぽこ」としたことで、そのツギハギ感が前面に出てしまった。これはスマートな解決方法ではないと感じる。

第二に、難易度の問題である。先に述べた通り、文字単位で切り刻んでしまえば、かなりの自由度がもたらされる。こうしたことから、第6回大会以降の方向性は「まず最初に面白いネタ的な文章を作り、それがジブリタイトルの使用する文字で成立するように文字単位で当てはめて行く」作業になっているような気がしてならない。

これは第21回優勝作品「こんなん坂ちがウ崖やんおすなや」で最高潮に達している。この作品は一文字単位で切り貼りされており、ツギハギ感も極まっているが、同時に流石にこれだけバラバラにすればそりゃなんとかなるよなという諦観のようなものも感じられるのである。

そして第三の理由はこれまでに述べてきたこととも通じるのだが「文字単位で切り刻んだものは秀逸なパロディにならない」ことである。

そもそも、「ジブリタイトルを組み合わせて」という趣旨には、素敵なジブリタイトルを元ネタにしながらも、改変によってどれほどの「落差」を生み出せるかという、元ネタとパロディの関係性が存在している。

故に、我々はその改変タイトルの切れ味を評価する際に、常に元ネタとなるジブリタイトルが頭に浮かんでいる。第1回の「耳がきこえる」などは「耳をすませば」と「海がきこえる」の(一見美しいがそれ単体では何のことを指しているのかはよくわからない)間接的かつ詩的なタイトルの二つを組み合わせたら、まったく当たり前で直接的なタイトルに変わってしまったという「落差」に驚き、笑っているのである。

しかし、それも「何が元ネタになっているのかわかる」が故のものである。その点において第2回「豚トロ」などは、ほとんど文字単位に分解され、文字数を極限まで削っておきながらも元ネタの輝きは失われておらず、誰でも「アレ」と「アレ」が組み合わされていることが理解出来る(この点において、元ネタとは違う読み方で「豚」を使ったにも関わらず、全くそれを感じさせないのも凄い。言わば反則ギリギリなのに、先に述べたようなツギハギ感を感じさせないのはまったく見事である)。

しかし、文字単位で分割し、それで長文を作ろうとすると話は別である。各タイトルの輝きは使われる作品が多くなるごとに失われ、埋没していく。一文字単位で使われたタイトルの元ネタに、もはや深い意味は無い。ただ単に都合のいい文字が使われていたから、きっとそれだけである。そこにもはやパロディの精神はない。

故に、あくまでも個人的にだが、本来評価されるべき笑いは「最小限の改変で最大限の切れ味」というパロディ性のある、初期の作品にこそ存在すると考えている。だが、近年の優勝作品の傾向を見る限りでは、おそらくそうした点を評価する人というのは少数派になっているようだ。

初期作品こそが素晴らしく以降はクソというのは「ファーストアルバムこそ至高と言って憚らない頭の固い音楽ファン」のようで少し嫌なのだが、しかし一文字単位で分割され、何作品もの原形を留めない小間切れの中から無理矢理作り出された長文タイトルには、個人的には一切パロディとしての魅力を感じないのである。