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無名サイトのつづき

ラーメン大学の謎(と、ラーメン屋になった自動車メーカーの話)

圧倒的な資本力に裏打ちされた全国チェーンが日本中の景色を塗り替え、ありとあらゆる地方の町並みが均一化していく中で、最近ではそれに抗うかのようにその地方の色を残し続けるローカルチェーンが好意的に取り上げられることも増えている。

今回は、そんなローカルチェーンの一つに残る謎についての考察である。国会図書館デジタルコレクション等を用いた机上調査であり現地取材は一切行っていないが、それでもこれまでにない調査になったものと自負している。

本記事で主に取り上げるのは、主に長野県内のローカルチェーンとして認識されているラーメン大学というチェーン店である。

この店は現在ネット上での一般的な認識としては長野県内を地盤にしたチェーン店だと思われているが、実は地方を旅しているとそれ以外の地域で同じ屋号を掲げた店に出会うことがある。過去島根や山口でも見かけたことがあり、はて長野のチェーンがこんなところまで勢力を伸ばしていたのだろうかと疑問に思ったものだ。

そして、改めて調べてみると驚きの事実が発覚したのでここに掲載する次第である。

まず、ラーメン大学を語る上で前史となるのが1960年代後半に発生したサッポロラーメンブームである。当時、サッポロラーメン(味噌ラーメン)は北海道ローカルな存在であり、これを関東圏に持ち込んだのが現在でも続くチェーンの一つ、現在はペリカンのマークで知られるどさん子ラーメンであった。

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さて、このどさん子(運営会社:北国商事株式会社)だが上記参考記事にもある通り名前のよく似たチェーン(どさんこ大将やどさん娘)が存在しており、実際にこれらの間では訴訟沙汰になったりもした。しかしこれらの別チェーンについても実はルーツはどさん子にあり、本部の関係者だった者やどさん子の傘下でラーメン店を営んだ者が独立したケースが多々あったようだ。

例えば、どさん子の創始者である青池保氏は1961年、東京都墨田区に「つたや」という中華料理店を開き、これを複数店舗展開したのちに1967年からどさん子のチェーン展開を開始したとある。
[出典:飲食ビッグチェーン33 : 直営店に重点を置くチェーン展開,東京経済,1977,P75 ]
https://dl.ndl.go.jp/pid/12765076/1/163?keyword=%E5%8C%97%E5%9B%BD%E5%95%86%E4%BA%8B%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE

これに対し、どさんこ大将(運営会社:北宝商事株式会社)を率いる吉田愛児氏はこの「つたや」に関わっており、1967年にどさんこ大将の一号店を開設、1969年からは北宝商事を設立してチェーン展開を始めている。
[出典:うまい麺・売れる麺 : 麺の製造と販売,食品と科学社,1972,P136]
https://dl.ndl.go.jp/pid/12101254/1/79?keyword=%E5%8C%97%E5%AE%9D

また、どさん娘(運営会社:株式会社サトー商事)を展開する佐藤長吉氏は1976年のインタビューで「元々は看板屋をやっていたが、どさん子のフランチャイズに加入するという友人に出資したところその人気に驚き、自分で運営する側に回ることにした」と回答している。つまりこれもまたどさん子関係者と言って良いだろう。
[出典:近代中小企業1976年8月号,中小企業経営研究会,1976,P72-73]
https://dl.ndl.go.jp/pid/2653683/1/40

これらの店に対して元祖(?)であるどさん子の青池氏は自らの著作で「私が始めた”札幌ラーメン・チェーン”は、"どさん子"のほかに、"どさん娘"、"どさんこ大将"、"熊ぼっこ"、"狸小路"、"ラーメン大学"と、多士済々の名を競い合っているが、いずれも、"どさん子"の亜流か、換骨奪胎ではないか、少なくとも"どさん子"の釜の飯を食った人たちによって作られ、運営されているのが実情ではないか」と述べていた。
[出典:青池保,ラーメンの王様どさん子商法,東京経済,1973,P197-198
]

そう、どさん子の名前を直接的に使った「どさん娘」「どさんこ大将」ばかりがクローズアップされがちであるが、似た商標は使わないまでもどさん子から枝分かれしたチェーン店は他にも存在しており、その一つがラーメン大学だったのである。

この1970年に設立されたラーメン大学(運営会社:株式会社ラーメン大学)の代表である鈴木昭春氏は、かつてどさん子運営会社である北国商事株式会社の専務を務めていた。つまりどさん子の幹部が独立したわけなので完全にどさん子の血筋と言って良いだろう。

……とまぁ、ラーメン大学のそもそものルーツはどさん子にあったというわけだが、この株式会社ラーメン大学の時代、本社所在地は東京にあり、決して長野のローカルチェーンというわけでもなかった。むしろ、70年代においては全国チェーンを指向していたのである。

このラーメン大学は本社が直轄する他のどさん子系フランチャイズの多くとは異なり、エリアフランチャイズ方式を取っていた。この方式は各地区に地区統括を置き、そこから個々のフランチャイズ店を管理する形であり、個々の地域に対するコントールが効くことからかつてはコンビニ等でもよく見られた形態の一つである。

そしてここで登場するのがホープ興業株式会社という会社である。このホープ興業はラーメン大学の西日本エリアを統括する西日本本部だったわけだが、この会社の社長は小野定良氏という方だった。

この小野とホープという名前でピンと来た方は相当なカーマニアだろう。実は小野氏、軽オート三輪の先駆けであるホープスターで知られる、れっきとした自動車メーカー(ホープ自動車)の社長でもあったのだ。

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ただ、ホープ自動車は大手メーカーに押されて1965年には自動車事業から一旦撤退、その後1967年頃に再起を賭けて軽四輪駆動車という全く新しいジャンルを切り開くホープスター・ON型4WDを開発するものの、量産を断念。この車の権利はスズキに販売され、それが現在も続くジムニーの礎となったことが知られている。

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さて、自動車事業を諦めたホープは遊園地の遊具やアミューズメント機器という新たな事業を興し、こちらで再起を果たして近年まで健在だったが、それも2017年に倒産してしまった……というのが、一般によく知られているホープの足跡である。しかし、先にも述べた通り実はこれらの事業転換と並行してホープは外食産業にも進出していたのである!

このホープ興業株式会社は(ちょうど自動車事業を諦めつつあった)1965年に設立され、当初は京都の大山崎ドライブインを経営していたようだ。その後1970年に一度どさん子のフランチャイジーとして参加したが、郊外ロードサイド重視の出店方針が当時のどさん子の方針と合わなかったことから、1972年にラーメン大学ブランドで新たに出店したというのがラーメン大学事業の始まりのようである。
[出典:中華料理店 : 開店と経営,柴田書店,1976,P270]
https://dl.ndl.go.jp/pid/12024414/1/144?keyword=%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%97

ひょっとしたら、この当初の出店時にどさん子側に居たのが(当時はどさん子の幹部であった)ラーメン大学の鈴木氏だったのかもしれない。

そして、この「中華料理店 : 開店と経営」という本には株式会社ラーメン大学の加盟店募集広告も掲載されているのだが、そこには四社の名前が連名で掲載されている。

そう、現在に残っている長野のラーメン大学のルーツは直接的にはこの信濃商事株式会社である。この長野のラーメン大学(信濃商事株式会社)を率いていたのは祢津久男氏で、長野で飲食店を経営していた氏は1971年に東京を訪れた際に(当時東京に一件だけあったとされている)ラーメン大学に立ち寄った際に可能性を感じ、長野での店舗展開を決めたとのことである。
[出典:朝日新聞長野支局 編,信州リッチマン列伝,銀河書房,1974,P32]
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260288/1/20

※株式会社ラーメン大学の本社所在地は墨田区押上であり、墨田区本所とは至近である。

ちなみにこの祢津久男氏、先の資料ではT食品(テイショク)の株を買い占めて乗っ取りを謀るなどしており、別の資料では名電工関連の仕手筋の人物としているものもあったりする。そもそも名電工の代理店だった時期もあるようだ。まぁやり手()の実業家だったということなのだろう。
[出典:中村光行,実録・仕手戦の内幕,オーエス出版,1987,P51]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11978794

ja.wikipedia.org

祢津氏は1997年の食品工業総合名鑑には株式会社エスネッツの会長として掲載されており、このエスネッツの業務内容も「ラーメン大学本部」となっている。このエスネッツの社名は有名サイトである本店の旅にて現在運営会社とされている企業でもある。つまり、長野のラーメン大学に関してはかつてこのエリアを統括していた信濃商事の流れがそのまま続いていたと言っていいだろう。
[出典:食品工業総合名鑑1997,光琳,1997,P706]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11941270

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ただし、このサイトにある「そのルーツは、1962年頃に東京で創業した店舗となる。そして1965年、暖簾分けという形で長野県でオープンするのが、今のラーメン大学の本流となる」というのはこれまでの当サイトで説明してきたラーメン大学の成り立ちを見れば明らかに誤りであることがわかる。おそらく信州リッチマン列伝にある1971年というのが本当の(長野のラーメン大学の)始まりであろう。

しいて言えば、1962年は青池氏(どさん子)の「つたや」が多店舗展開した時期であり、また1965年には(ラーメン大学地方本部の一つであり、信濃商事よりも先行していた)ホープ興業が設立されていることから、これらの記録と混ざっているのではないかと考えられる。いずれにせよ大まかに言えばサッポロラーメンブームの流れの中にあった店舗であることは間違いない。

このような中でホープ興業の運営する長野以外のラーメン大学については90年代半ばまで加盟店募集をしていたようなのだが、その後ホープ本体の運営に専念するようになったのか、2000年代を待たずしてラーメン大学からは手を引いたと考えられる。おそらくは他の地域も同様であり、結果として長野以外の店舗は消えていったので長野のラーメン大学だけが残り、現在のようなローカルチェーンと見紛う状況が生まれたというわけである。

とまぁ、ルーツのよくわからないチェーン店を追うことで、競合ひしめくサッポロラーメンブームであったり、自動車という夢に賭け夢破れた企業の知られざる生き残り策だったり、あるいは特定の地域に根ざしたやり手経営者だったりといった様々な歴史を感じることが出来たわけである。そもそもこの時代の記録を読んでいるとサッポロラーメンブームというのはすさまじく、上記に出てきた経営者達も一年で数十店舗をオープンさせるなど破竹の勢いで、一時はどさん子だけでも1,000店を超えていたという。まさにラーメンチェーンの黎明期はゴールドラッシュでありそこに群がる人達の人間模様も主力商品となる味噌ラーメンのごとくあまりにも濃厚だったのだ。

それにしたってちょっと味が濃すぎる気もするのだが。