インターネット

無名サイトのつづき

キュレーションの時代(とその終わり)

インターネットは世界の何を変えたのか? 今更になってこの問いに答えるのはおそらく難しい。それは影響があまりにも多岐に渡るというのもそうだし、インターネットがインフラとなって以降の時代しか知らない世代にとっては水や空気のない世界を想像するようなものだからである。

ただ、インターネットが実現したことの一つに「個人がメディアとして情報発信出来るようになったこと」というのは間違いなく存在し、これが世界を変えた要素の一つであるというのもまた否定する者はいないだろう。

そう、かつてメディアというものは片方向であった。新聞やテレビやラジオや雑誌やら……要するに様々な意味で力のある団体等により大衆に一方的に与えられるものだったのだ。もちろん双方向性というものが全くなかったわけではないが、その双方向性というのは非対称なもので、言うなれば既存メディア側に圧倒的優位な状況で繰り広げられるコールアンドレスポンスであった。大衆は観客の立場であり、よほどのことがない限りはステージ上に立つ側ではなかったし、もちろんステージ上で対等に振る舞うことなど考えられなかったのである。

そしてそれを変えたのがインターネットであった。当時のインターネットの主体であったwebサイトは、大衆がいちメディアとして──少なくともインターネットの上では──対等になれる手段だったのである。故に当時の個人サイトでは、既存メディアでは行き場のなかったマニアックな情報などが盛り上がりを見せ、それ故に既存メディアより面白いという認識も生まれていった。

とはいえ、かつてインターネット上の情報というのは既存メディアのそれよりも一段低いモノだと見られていた。

というのも、先に述べた通り情報を発信するにしても既存メディアで活動するようなプロである必要がなく、在野のアマチュアから発信される情報はまさに玉石混淆だったからである。

00年代初頭は同時並行的に匿名掲示板が流行っていたこともあり、特に匿名掲示板で流布される情報は発信者が誰であるかもわからない無責任なものであるとして、時として既存メディアの側から攻撃の対象にもなっていた。いわゆる「便所の落書き」扱いである。

これで実際、既存メディアが言うとおり玉石で言うところの石ばかり……つまり価値のない情報しか集まっていないのであれば、インターネットにはそれ以上の価値は認められなかったところだろう。

だが、実際には在野の狂人達が存分に力を振るうことでインターネット上の情報は既存メディアとの差別化に成功し、いつしか既存メディアと互角に渡り合うものさえ出現し始めた。

中にはそうしたインターネット上の情報を臆面もなくパクっては自分たちの収益とする既存メディアも発生しはじめ、こうした不義理によってもインターネットと既存メディアの対立は深まっていったが、それはインターネットにある情報が世間一般に認められるレベルに到達しているという証でもあった。インターネットには玉もあるというのはもはや誰も否定できない事実となっていたのである。

……が、それでも参入障壁の低さから石も流れ込み続ける以上玉ばかりということにもならず、つまり全体として見ればネット上の情報というのはいつまで経っても玉石混淆のままであったのである。

そして00年代の半ばにはブロードバンド時代を迎え、ネットの参入障壁がますます下がると同時に、ありとあらゆる知が(玉石混淆のまま)インターネットに流入し、いつしか溢れてしまうのではないかということが真剣に議論され始めた。

そう、皆がこう思ったのだ「インターネットには良いものもある、悪いものある」と。

この時代というのは今となっては想像しづらいかもしれないが、個人サイトが無限に増え続け、匿名掲示板はますますその勢いを増していた時代である。爆発的に増える個人サイトや無数に生まれる匿名掲示板の情報の中から「良い情報」だけをすくい上げるコストは明らかに増大していて、もはや個人の手には負えなくなっていた。

そこでまた誰かがこう考えたのであろう「じゃあ、識者が良い情報を選定してそれを並べればそこに価値が生まれるだろう」と。

キュレーションサイト……あるいはまとめサイトというのは、そういう理屈であった。

誰もが情報を発信する側になれるという時代がwebの第一段階であるならば、増えすぎたその情報を整理・編集し、よりよい形で届ける……これがwebの次のステップであると考えられていた時期が過去確かにあったのだ。

無論、前例がなかったわけではない。

個人webサイトの時代から界隈にはその日のニュースを集約する個人ニュースサイトというものが存在していたし、それは各々の管理人のフィルターを通して選別された情報でもあった。このニュースサイトにも、各ニュースに対して管理人のコメントが二言三言付いたりするタイプと、完全にリンクに徹する羅列型があったが、どちらも管理人がフィルタリングした情報を再配信していたことは同じである。

また、初期のディレクトリ型と呼ばれたYahoo!やAll Aboutなどもこうした方向性であり、これらはある程度そのジャンルに精通したキュレーターが掲載に値すると感じたサイトをリンク集形式で紹介しているものだった。それ故に当時のYahoo!掲載というのは厳正な審査を通過し価値が認められたに等しいわけで、個人サイトにとっての金看板でもあった。

こうしたキュレーションをこれまで以上に大々的にやって、インターネットの大トロの部分だけを切り出せば良い……そういう考えが生まれたのはある種自然なことだろう。

……が、この考えというのはわりとあっけなく瓦解する。

その原因のひとつがいわゆる「狭義のまとめサイト」である2ch(※当時の名称)まとめサイトのお行儀の悪さにあったのは間違いないだろう。そもそも2chに書き込んでいる側としては、2chでネタを披露したところで別にそれで金銭を得られたわけでもなかった。もともと彼らは過去商業主義的既存メディアから「便所の落書き」扱いを受けていたこともあり、アンチ商業化・非商業主義の立場を取る者が多かった。匿名であるが故にその栄光はスレッド内に限られたものだったが、それでもそのスレッドのヒーローになれるのであればそれで良しというユーザーも多かった。むしろ「誰も得しない」という方針で馬鹿をやることで団結をしていた節さえある。この当時はインターネットは自由かつ無料であるべきという考え方が今よりもずっと根強かったのである。

しかし、こうした盛り上がりを利用する輩が出現し始めた。これこそが2chまとめサイトである。とはいえ、先に述べた通りこの頃にはもはや個人では話題を追い切れなくなっていたため今ホットな話題を抜き出してキュレーションするという意味ではまとめサイトの存在意義がないわけでもなかった。話題のスレッドとなれば流速も速く、また議題に関係ない茶々や煽りも多発する2chにおいては、ネタ元となるスレッドを読むだけでも多大な労力が発生する。そういった意味ではまとめサイトによるキュレーションは当時のニーズにマッチしていた。

ただ、まとめサイト側はこの時期流行りだしたアフィリエイトをサイトに組み込むことで、他人の褌でメイクマネーをも実現していた。現在は若干風向きが異なるかもしれないが、この当時は原価(?)がタダの書き込みを勝手にパクって金儲けをするというのはとんでもないという考え方が一般的であった。

そして、この金銭の発生はまた別の悪影響を与えた。こうしたサイトがひとたび金儲けの道具となければ、よりPV(金)を稼げる方向へ突き進んでいくのが自然な流れであり、行き着く先は先鋭化とゴシップ化である。

当初は「話題を見やすく加工して提示してくれること」に価値を感じていた人達も、このような動きにいつしか疑問を感じ始める。特にある時期のまとめサイトはよりアフィリエイト収入を得られるよう、ユーザーを引きつける為にセンセーショナルな見出しを掲げ、対立を煽りまくった。その結果内容はウソ・大げさ・紛らわしいを地でいくものとなり問題視されるようにもなった。また、先に述べた通りこの結果金銭という形で恩恵を得るのはネタ元の数多の名無しの掲示板投稿者ではなく、まとめサイト管理人のみなのである。

そしてこれらの問題は、インターネット民がかつて嫌った既存メディアの姿とも重なって見えた。まとめる側が数多くの名無したちの上に立ち、彼らの成果である書き込みを勝手に収益化して上前を跳ねる……もちろん投稿者には何のメリットもなく、かといって防ぐ方法も(当時は)ない。かつて既存メディアがインターネット上の情報をパクっては雑誌に掲載して自分たちの収益にしていたのと全く同じ構図がここにあった。また、2chまとめサイトに限らずnaverまとめ(サービス終了)やTogetter等でも恣意的な編集が行われていると疑われた例は多々あり、これもまた、既存メディアにおける編集の問題と全く同じであった。

かくして、匿名掲示板の一部は反まとめサイトの姿勢を打ち出すようになり、これらの盛衰と同時にまとめサイト以外のキュレーションに対する期待もまた萎んでいったように思える。結局のところ、全部まとめてこれらキュレーションは他人の褌で相撲を取る行為──もっと言えば、他人の成果物の上前を跳ねるクズの行為──であると結論付けられてしまったし、不倶戴天の敵として認知されたのだ。かつては確かに有用性もあったというのに、である。

そういった意味では、少なくともインターネット上でのキュレーションの時代は終わったと言って差し支えないだろう(あるいは切り抜き動画がこれらの末裔なのかもしれないが、そちらについては他に任せることとする)。

「凝ってる」という評価軸

都会のラーメン屋に行くと、その店のラーメンがいかにこだわりを持って作られているかがひたすらアピールされていることがある。

スープは〇〇と△△をn時間煮出して……とか、麺はナントカ製麺所に特注のn番刃で依頼して……とか、そういうやつである。壁に書いてあったりメニューに書いてあったりは様々だが、ともかくそのようなアピールが見られることは多い。

さて、これらの情報過多さやそうした外部情報にレビューが引っ張られがちな人々についてはそのものズバリ「人は情報を食っている」という評がとある漫画にあるし、それはその通りだとも思う。

とはいえこれも否定的な話ばかりではなく、実際に美味しい食事に対してこれこれこのような理由があって美味しいのですという説明があり、それにより知的好奇心が満たされることが一種の付加価値として機能していることは確かだろう。

ただ、そのような能書きの多いラーメン屋が皆美味しいのであればそれでもいいのだが、困ったことに微妙なものに当たることもある。

大満足で美味しいとは言えないし、かと言って食えないほどに不味くもない。しかし支払った金額と数多の能書きを見る限りでは明らかにその期待値には届かない──そんな存在である。

個々の要素にこだわりが込められていることは痛いほどわかるのだが、しかし悲しいかなそれがトータルの満足感には寄与していない。むしろこれだけやってコレかよという気分になる……という経験は読者諸兄にもきっとあるだろう。

さて、このようなラーメン屋を貶すだけなら簡単だ。例えばレビューやブログに書くとすれば、不味いとは言わないまでも期待外れだったとかそういう感想で済むだろう。しかしこれが他人に勧められた店で、感想を求められたとしたらどうだろうか。そうなるとストレートに貶すのも憚られるところである。

というわけで、ここで新たな評価軸として「凝ってる」を提唱する。

「凝ってる」はその過程を評価するものである。ラーメン屋が掲げるこだわりを全力で肯定し、そこに対してはきちんと評価する。そしてそのこだわりへの評価をもって、なんとなく肯定するのである。実際に彼らは凝っておりそこの努力は認めざるを得ない。何より嘘は言ってない。

not for meではあるが全否定でもない、そんな言葉である。活かせるシーンはあまり想像したくないが、きっとその時には力になれるだろう。知らんけど。

選択肢なき選択(もしくは選択なき選択肢)

アドベンチャーゲームRPG等において、会話シーン中に選択肢が表示され、その選択によってストーリーが分岐するものは多い。というか、ほとんどのゲームがこの選択肢分岐を採用していると言っていいだろう。

ゲームが他のメディア(例えば映画やアニメやドラマ等の映像作品)と異なる点といえば、ゲームはインタラクティブな(双方向性のある)メディアという点である。これを先の例に照らしてみれば、ストーリーを流れるまま傍観する他にない視聴者という立場で視聴する映像作品に対して、ゲームのプレーヤーは選択肢があれば主体的に介入することが出来る。もちろん選択肢のない部分では視聴者的な立場となるが、それでもプレーヤーが主体性を持って選択する権利があるというのが、他のメディアに対するゲームの大きな違いと言って良いだろう。

この選択肢による分岐を煮詰めたのがサウンドノベルなどのジャンルで、選択次第でまったく別のストーリーが展開されるなど、選択肢自体がシステムの根幹を成すものとなっている。

とはいえ、この選択肢というのは登場したら必ずストーリーの分岐が発生することを意味するものではない。単に説明の順番が変わるだけだったり、結局特定の返答をするまで無限ループしたり、どれを選んでもストーリーの分岐には無関係というものも多々ある。

しかし、そうかと思えば一見何気ないような質問の中に実はとんでもない伏線が張られていたり、序盤のおよそ分岐に無関係そうな質問が後から効いてくるようなゲームもあったりするので、それらも含めて選択肢に秘められた真意を探っていくことがゲームの楽しみ方の一つであると言えるだろう。

さて、こうした中で個人的に気になっているゲームの演出手法がある。

それは、選択肢のポップアップが出るものの、実際は一つしか選択肢がなく、プレーヤーはそれを選ぶことしか出来ない……というものである(この手法に何か名前が付いてるのかどうかは知らない。便宜上ここでは単一選択肢と呼ぶ)。何処が元祖かは知らない。

さて、よく考えてみるとこの単一選択肢はヘンである。

通常の選択肢であれば、いくつかあるうちのどれかを選ぶ……ということがプレーヤーの文字通り選択を示し、それによって話は分岐したりしなかったりする。しかし単一選択肢の場合、それしかないということは、結局プレーヤーはそれを選ぶしかないし、それによる変化もないはずである。

否応なしに選ばされるので、ストーリーが分岐するか否か、物語が動くか否かという点においてはこの選択肢は無くしても構わないのではないか、というわけである。また、メッセージ送りを連打していれば(通常の選択肢とは異なり)どれも同じ結果となる。ひょっとしたら選択肢があったことにも気付かないかもしれない。

しかし、それでもこうした単一選択肢が存在するゲームは多い。それも、ストーリー上の重要な盛り上げどころに配置されたものも多々ある。

これは一体なんなのかといえば、つまりはこれが先に述べたプレーヤーの主体性を表現する手法だからである。

例えばこんなシーンがあるとしよう。プレーヤーはそれまで共に戦ってきた仲間を、とある理由から処刑しなければならない。辛い決断を表すシーンにおいて「選択肢が出ない為ただメッセージを送っているとコトが終わっている」のと「辛い決断だが、それでも『主人公でありプレーヤーが決めた』ことを明確化する為に単一選択肢が出て選ばせる」のかでは、その行為に対するプレーヤーの気持ちは異なるはずである。

つまり、ともすれば傍観者側に寄りがちなプレーヤーを作中に引き戻す策であるとも言えるわけだ。キャラクターが勝手にやったのではなく、あなた(プレーヤー)が選んだことであると。仮にそれが、選択肢なき選択だったとしても。

考えてみれば、このようなことは現実にもよくある。事実上「はい」としか回答出来ないシーン、真意は別として形式上謝らなければならないシーン……様々な有形無形の圧力や配慮から選択肢は狭まり、誰の意思かも曖昧なまま一択を選ばせられる(?)シーンが存在する。こうした選択に主体性もクソもないのだが、その場合も発言の責任は自身に被せられる。

そういった意味では、ゲームの単一選択肢もまたリアルな演出の一つと言えるだろう。

逆に言うと、ゲームでよくある「明らかにギャグで用意された選択肢」は現実では普通出来ない回答なわけで、これはそのような回答をすることによる一種のスリルを疑似体験させていると言えるだろう。

どちらにせよ、たとえ一つしか選択肢がなかったとしてもそれを「選ばせられる」シーンは現実にもゲームにも多々あるし、それによって話は何も変わらないとしても、自身がそれを選んだという事実は重くのしかかるのだ。

この主体性のない選択が、かえってプレーヤーの主体性を意識させるのである。

リザルト2022

本年も大変お世話になりました。ここの更新は相変わらずスローペースですがなくなってはいませんのでたまに増えます。

2022年ですが、色々あったはずなのですがどういうわけか後半に起きたことくらいしか覚えていません。前半何していたのか思い出せないです。とはいえ後半は色々あって、主たるところではついに各種制限に耐えてきた50ccにぶち切れて普通二輪免許を取得したり、教習所通ってるうちに何故か車が増えたりしました。本当はバイク買うつもりだったのが何故か車が増えてて意味が分かりません。

来年もおそらく思い出せなかったり意味が分からなかったりする出来事が続くのでしょうが、まぁそれも人生と思うことにします。一般的な意味での人生というのは何ら進捗がないのですが。