あしたのためにあさって死のう
前回のとおり、転勤が決まっているので引越し先やら引越し方法の検討なんかを始めている。
家についてはたった二日の内覧とはいえ集中して10件ぶっ通しで見続けたあと、大阪市内の築27年という自分の実年齢よりも古いとあるマンションに落ち着いた。
我ながらなかなかいい加減かつ豪快な決め方だとは思うが、すでに残された時間は少ない。本来であればもっと他の街なんかも見る予定だったのだが、結局不動産屋はたまたま最初に問い合わせた一件目だけで決めてしまった。 先週内覧して仮決めして、月曜申請して今日には決まったのでなかなかのスピード感である。おかげで他の準備は何も出来ていない。
なんでまた古めの物件にしたかというと駐車場が必須だったのであまり部屋に多くお金が使えないということと、そうはいっても荷物が多くなりそうなことを考えた上での決断である。妥協出来るところは妥協する事にしたし、そうでないといつまで経っても決まらない。具体的に言うと建物全体の築年数が多少古くても部屋がリフォームしてあればよいだとか、駅からある程度歩くのは許容したりといったところ。その代わりに得たモノが壁の厚さと屋根付き駐車場とそれなりの広さ。
で、家まで決まって、この街を離れるまでの残り日数が数えられるようになると急に寂しさというか、見飽きるほど見てきた街並みが貴重に思えてきた。
結果として、これまで特になんとも思っていなかった日常の一挙一動に妙な重みと緊張感が伴うようになる。
この道を通るのは次は半年後か、それとも五年後だろうか、ひょっとしたら十年後かもしれない。あのラーメン屋に行くのは今日が最後かもしれない。あの人に会えるのはあと何回あるだろうか。気になってたけど入ってなかったお店、最後だし覗いてみようか。などなど、エトセトラ。
少し前まで何とも思っていなかった物事のすべてが心に響く、この気持ちがなんなのだろうかと考えてみたのだが、たとえば死期が近い人間はこんな感じなのかなと思えてきた。
よくドラマとかで末期ガンの患者とかがどうせダメなら最後は自由に生きてみたいなセリフが登場するけど、あの感覚がまさにこれではないのだろうかと思うのだ。
もっとも、何の死にも直面していない人間が勝手に想像して勝手にシンパシーを感じるのは大変失礼なことなのでそこはもう少し考えたいところだが、それでも灰色だった世界のすべてが突然キラキラと輝きだしたような感じで正直ちょっと楽しい。
ということは、この世のすべてを自分の中で輝かせるには明後日死ぬつもりで明日を過ごせばいいのではなかろうか。毎日そういう気分で過ごしていれば、万が一何かのトラブルで本当に死んでしまっても、それはそれで悔いのないものになるのではないかと思うのだ。これはけっこう隙のない理論ではないかと思う。
ここまで書いたらおなかがすいたし、最後の晩餐を、カップ麺かなにかで。