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無名サイトのつづき

リアルとバーチャルを撮るということ

ある日Twitterを見ていると、このような記事が回ってきた。

pentaxofficial.com

詳しいことは各自この記事を読み進めて欲しいのだが、いまやゲームのグラフィック(3DCG)は実写と見紛うばかりに進歩を遂げており、そうしたゲームの中には美麗な景色の中でプレーする自分の姿を「撮影」出来るものが増えている。つまり、ゲーム内に「写真を撮る」という行為が組み込まれるようになった……という事例から、ゲーム内写真は写真たり得るのか、ゲームから写真家は生まれるのだろうかといった新たな問いが生まれているという話である。

さて、写真とゲームの関係性という意味では、写真を撮ること自体をゲーム化したものは以前から存在していた。

記憶している限りではナムコアーケードゲームに写真を撮るものがあったと思う(タイトル失念)し、コンシューマ向けとしてはポケモンスナップ(N64)などが存在した。少し下ってAFRIKA(PS3)なんかも写真を撮ることを主題に据えており、現実に存在するソニー製のカメラを使用する辺りは新しかった(レースゲームに実在車種が登場するようなものだ)。

しかし、基本的にはそうした「撮影行為をゲーム化した」ゲームというのは皆広義のシューティングゲームと言える。そもそも写真撮影自体に「shooting」の語を当てることがあることからもわかる通り、特定の被写体をカメラに収めるということはアクションであり、狙い撃つということとほとんど同義語なのである。なのでこれらは銃を使わないシューティングゲームであると言って良いだろう。そういえば銃とカメラには親和性(?)があり、かつては射撃訓練のために機関銃を模したカメラが作られたほどであった。

一方で、最近のゲームに搭載されている写真モードやスクリーンショットというのはその撮影行為自体がアクションでありシューティングであるというわけではない。つまり、ゲームと写真の関係性の中で「ゲームの中にある写真撮影機能」と「写真撮影をゲーム化したもの」というのはそれぞれ分けて考えなければならないだろう。前掲の記事が論点としているのは「ゲームの中にある写真撮影機能」の方である。

さて、先の記事を最初に読んだ時に最初に思い出したのは、グランツーリスモシリーズにおける写真撮影機能のことである。中でもソニーのサイトに掲載されている下記の記事は、本来ならばカメラの販促記事として制作されたものだとは思うが、ゲームの側の視点から見ても非常に興味深い内容となっている。

www.sony.jp

ご存じでない方に簡単に説明すると、グランツーリスモシリーズというのはPSプラットフォームを代表するリアルに振ったレースゲームのシリーズであり、各世代において最高峰のグラフィックを標榜した作品となっている。中でもPS3以降の作品では出る度に「実写と見紛う」といううたい文句で紹介されている……そんなゲームである。

で、このゲームには写真撮影モードが実装されており、自分がプレーしたレースを任意のタイミングで止めて写真撮影する他に、予め用意された背景に車を置いて撮影するというモードもある。この記事ではその背景の作り方について触れている。

シリーズ旧作においては、この背景というのはフルに3DCGで作り込まれていた。そこに置く車も3DCGなのだから馴染みもいいし、様々な角度から撮影出来るというメリットも生まれる。ただ、フォトリアルな3DCGを大量に作るということは当然労力が必要な為、選べる背景の数というのは非常に少なかった。現に前作のGT6発売時に選べた背景の数は5種類程度しかなかった。

一方で、現行最新作であるGT SPORTの背景の数はなんと1,400種類に及んでいるという。これは何故かというと、背景を3DCGで作り込むことをやめ、写真をベースにしたからである。これにより各種オブジェクトを作り込む必要がなくなり、大量の背景を実装出来るようになったのだという。

もちろん、背景の元になる写真を一枚撮って終わりというわけではない。ここにはもちろん写真と並べても見劣りしないほどの高精細な3DCGが実現可能になったということや、それら3DCGが置かれた際にどのようにボディへ映り込むのか、路面への灯火類の反射や影が付くのかといった部分が作り込まれている。だからこそプレーヤーは「まるでそこにあるような」画像……というか「写真」が撮れるのである。

つまり、少なくとも現在のグランツーリスモというゲームにおいては実写グラフィックと3DCGグラフィックが高度に融合し、その結果として現実の写真と見比べても違和感のない写真が撮れるようになっていると言える。見た目の面で既にリアル≒バーチャルなのだ。

この結果同機能はユーザーの支持を得て、先の記事の時点で既に6,000万枚の写真が撮影されたという。考えてみれば、プレーヤーが自分の愛車を格好良く撮ってアップするというのは、車好きが現実の自分の愛車をSNSにアップするのと同じことである。そういう意味でもこれは現実の写真と何ら変わることはない。

さて、写真の画質というか、リアルさという点においてはもはやゲーム内の写真は現実の写真と変わらないところまで来たということは判明した。ではもっと情緒的な……と言ったら変だが、写真を撮影するもっと原初的な部分においてはどうだろうか。例えば人々が撮る記念写真といったものである。

実はこれもまた、ゲームにおいては古くから行われてきた。

例えばネットゲームにおいてユーザー同士の結婚式が開かれたり、ある特定のクエストが終了したところでパーティーメンバーと集まったり、あるいはサービス終了時にロビーで皆が集まったり……折々において記念写真(スクリーンショット)が撮影されており、それ自体は決して珍しいことではない。純粋なゲームではないがVRchatなんかも写真を撮り合う文化があるように感じる。

写真の定義は多々あると思うが「個々人の何かを残したいという思いにより静止画が残されるもの」を写真と呼ぶのであれば、これらは紛れもなく写真である。そこにはフォトリアルの要素はないが、原初的な意味ではとても写真らしい写真であると言える。

そして「そこにはフォトリアルの要素はない」というのはこれまでのそうしたゲームがフォトリアルなゲームではなかったというだけの話であり、実際問題としてフォトリアルなグラフィックのゲームであっても同じことはきっと起きるはずである。

また、先の記事にあったような(いわゆるネットゲームではない上に、比較的フォトリアルな)Ghost of TsushimaやSEKIROにおいてプレーヤーが自キャラを格好良く撮ることもまた、自撮りの一形態と言い換えることも出来るだろう。また、特定のステージに到達した証拠としてのゲーム内写真は到達証明であり、観光地における看板の前での記念写真と同じ意味を持っているのではないかとも思える。つまり写真が撮影される理由というのは、リアルでもバーチャルでも根っこは同じなのである。

とはいえ、ある時期まで「ゲームはゲーム、現実は現実。あくまでも別物」と切り分けられてきたものがここに来て急速に近づいているように感じられるのは、ゲームが一段とフォトリアルになったこと以外に、ゲーム的3DCGアバターの手法が逆輸入されたバーチャルユーチューバーの隆盛であったり、もっと言えば現実で対面のやりとりが難しくなり、ビデオ通話と言った間接的手段を通してのコミュニケーションが急速に広がったりして境界が曖昧になったことなんかともおそらく無関係ではないのだろう。

かつて携帯で撮った写真は写真ではない、少なくとも芸術写真としては認められないのでは……というような議論があったものだが、今となってはそのような議論はもはや遠い昔の出来事であり現在では「何で撮ったとしても写真は写真」というところに落ち着いているように思える。言い換えれば「写真と見なせるものが出力されるのであれば、それがカメラで撮られている必要は無い」とも言える。

そして今、バーチャルでの撮影行為は「リアルさ」「それが撮られる理由」それぞれの面において現実の写真とほぼイコールたり得るのだから、被写体がバーチャルであってもリアルであっても「写真は写真」と見なされる未来というのはそれほど遠くはないのではないかと思える。

こうなると写真とは何かという根源のところに踏み込んでしまい、それならばそもそも自らが撮るということは必須の要件ではないのではとかそういう議論も始まってしまうのだが、そこは多くの人が現実で写真を撮るという時の心の動きはバーチャル世界においても同じであり、そうであれば現実の写真とバーチャルの写真はイコールたり得るのではないか……という話として考えて欲しい。

とはいえそうなると、こうしたバーチャル世界における写真の呼び方にも一工夫が必要なのかもしれない。既にこの記事の中でも何度も異なる文脈で「写真」という言葉が出てきて既に読者の方も混乱しきりだと思うが、なにせバーチャルを写しているわけだから、よくよく考えてみれば「マコト(真)を写す」という意味での写真という語はちょっと都合が悪い。

かといって、写真という言葉を嫌う(=写真というメディアは必ずしも真実を写しているわけではないので「真を写す」という言葉が誤解を招くと考えている)人達がよく使う言い換えであるところの「光画」にしたって、そもそもバーチャルの光は光なのかという点において納得が難しいところである。

つまりバーチャルを写したものは字面からいえばおそらく写真でも光画でもないのだが、しかしそれを何と呼ぶんだろうかと考えると、やっぱりそれは紛れもない写真なのである。