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無名サイトのつづき

放置車を弄る(そして世の中から見捨てられた乗り物に思いを馳せる)

昨年、一念発起して長年放置してきた原付バイクを公道復帰させた。

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……させたのだが、実のところ当初目標としていた長距離ツーリングはコロナ等々の影響もあって結局実行出来なかった。せめてということで隣の県に温泉入りに行ったりはしたものの、それが限界だった。

とはいえ、以降もDIYで少しずつ手を入れている。前回記事以降の作業としては50ccのままでのパワーアップを試み、マフラーとカムを交換してキャブ調整なんかを行ってみた。細かくは色々あるのだが、とりあえず50ccのままでやれることをやってみた格好である。これによりテストコース()でメーターを振り切るくらいまでの速度が出せるようになった。あとCDIも購入したのだが、これを入れ替えるには外装一式を取り外さなくてはならないため面倒で現在は後回しにされている。

で、これらの改造の結果それなりに公道でも走れるようになったので先日静岡まで片道150kmほどの日帰りツーリングに出てみた。箱根超えを含む様々な道を走ったが、チューニングの効果もあってかそれなりに楽しく走り回ることが出来た。

というか、多少パワーが出て改めてノーマルの異常さを感じたとも言える。なんせノーマルでのこのバイクは基本的にスロットルは全開か全閉かしか存在しない。何故なら全開にしないと交通の流れに乗れないからである。これは30km/hの法規を守る上でも同じで、30km/hに達するまでは常に全開である。スロットルを開けるイコール全開を意味している。以前はこのような乗り物だったので、多少なりともパワーアップし全開以外で走れる領域が生まれた時には感動してしまった。もちろん相変わらず全開率は高いのだが。

しかし、そうして走っていて思うのは市中を走る原付一種の少なさである。原付一種で県を跨ぐレベルの遠出をしているような人間は他には見当たらない。世の中の二輪というものは現在、事実上原付二種からスタートしていることを考えれば当たり前のことだろう。

そもそも普通に走っているだけで法規(速度)的にはやや怪しい。こういう場で堂々と速度違反をしていますと言うわけにもいかないのだが、かといって先のルートがずっとメーター読み30km/hで走れるような行程というわけでもない。まぁこの辺りは察して欲しい。なお上記のようなチューニングが長距離を走る上では必須と感じたのは確かである。

……このような状態なのだから、原付一種での遠出自体無理があるという意見も分かる。

とはいえ、現在の原付一種はそうした特殊(?)用途を抜きにしても、既に市場は大きく萎んでいる。前回記事では既に新車ラインナップは往時の何分の一かとなっていることに触れたが、登録台数も実際右肩下がりのようである。

かつての原付の主な用途──市内のお買い物や通勤通学──でさえ、今は原付一種はあまり使われていない。肌感覚的には、かつての原付一種の主用途であった領域は、現在は電動アシスト自転車やスポーツタイプの自転車が幅を効かせているようだ。実際にこれらは価格的にも原付に迫るものがあり、ある種競合していると言えるだろう。要は金額的にも速度的にも「ママチャリ以上自動車以下の乗り物」というカテゴリが存在しているのだ。

自分で漕がなくてもよいというのが自転車に対する原付一種のメリットではあるのだが、それ以上のデメリットとして免許制度やヘルメット等の着用義務や置き場所の問題がある。特に置き場所は色々規制の強化で取り締まりが増えたりとアレコレあったらしいが、結果として以前のように路上に気軽に止められるという感じではなくなったようで、気が付いたら街で見掛ける路駐は自転車ばかりになった。かつては相当数の原付一種が同様に路駐していたのだが、すっかり塗り変わった格好だ。

そしてここらへんの「ママチャリ以上自動車以下の乗り物たち」の枠に最近では電動キックボードが増えることになる。法規についてはやや甘めというか、歩道も条件付きで走れたりヘルメット不要だったりするというところも考えられているようだ。原付一種は諸々の制限が微塵も緩和されないというのに。

世の中二輪ブームとは言うものの、その二輪の中に原付一種は全く入っていない。例えば大型バイクこそがバイクであるというのならそれも分かるのだが、実際には「原付二種は」大ブームなのである。ただ一つ原付一種だけが蚊帳の外なのだ。

こうなるともう、原付一種は虐げられ滅び行くカテゴリなのは間違いない。二輪車として乗りたいのであればせめて二種にしろということだろう。二種からが人権のある乗り物ということだ……おっと、この人権という表現も危ういもので、プロゲーマーのクビが飛んだりしたのも記憶に新しい。

とはいえ現状の原付一種が「人権の存在しない乗り物」と言っても誰も否定しないだろうとも思っている。