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無名サイトのつづき

放置車を弄る(そして世の中から見捨てられた乗り物に思いを馳せる)

昨年、一念発起して長年放置してきた原付バイクを公道復帰させた。

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……させたのだが、実のところ当初目標としていた長距離ツーリングはコロナ等々の影響もあって結局実行出来なかった。せめてということで隣の県に温泉入りに行ったりはしたものの、それが限界だった。

とはいえ、以降もDIYで少しずつ手を入れている。前回記事以降の作業としては50ccのままでのパワーアップを試み、マフラーとカムを交換してキャブ調整なんかを行ってみた。細かくは色々あるのだが、とりあえず50ccのままでやれることをやってみた格好である。これによりテストコース()でメーターを振り切るくらいまでの速度が出せるようになった。あとCDIも購入したのだが、これを入れ替えるには外装一式を取り外さなくてはならないため面倒で現在は後回しにされている。

で、これらの改造の結果それなりに公道でも走れるようになったので先日静岡まで片道150kmほどの日帰りツーリングに出てみた。箱根超えを含む様々な道を走ったが、チューニングの効果もあってかそれなりに楽しく走り回ることが出来た。

というか、多少パワーが出て改めてノーマルの異常さを感じたとも言える。なんせノーマルでのこのバイクは基本的にスロットルは全開か全閉かしか存在しない。何故なら全開にしないと交通の流れに乗れないからである。これは30km/hの法規を守る上でも同じで、30km/hに達するまでは常に全開である。スロットルを開けるイコール全開を意味している。以前はこのような乗り物だったので、多少なりともパワーアップし全開以外で走れる領域が生まれた時には感動してしまった。もちろん相変わらず全開率は高いのだが。

しかし、そうして走っていて思うのは市中を走る原付一種の少なさである。原付一種で県を跨ぐレベルの遠出をしているような人間は他には見当たらない。世の中の二輪というものは現在、事実上原付二種からスタートしていることを考えれば当たり前のことだろう。

そもそも普通に走っているだけで法規(速度)的にはやや怪しい。こういう場で堂々と速度違反をしていますと言うわけにもいかないのだが、かといって先のルートがずっとメーター読み30km/hで走れるような行程というわけでもない。まぁこの辺りは察して欲しい。なお上記のようなチューニングが長距離を走る上では必須と感じたのは確かである。

……このような状態なのだから、原付一種での遠出自体無理があるという意見も分かる。

とはいえ、現在の原付一種はそうした特殊(?)用途を抜きにしても、既に市場は大きく萎んでいる。前回記事では既に新車ラインナップは往時の何分の一かとなっていることに触れたが、登録台数も実際右肩下がりのようである。

かつての原付の主な用途──市内のお買い物や通勤通学──でさえ、今は原付一種はあまり使われていない。肌感覚的には、かつての原付一種の主用途であった領域は、現在は電動アシスト自転車やスポーツタイプの自転車が幅を効かせているようだ。実際にこれらは価格的にも原付に迫るものがあり、ある種競合していると言えるだろう。要は金額的にも速度的にも「ママチャリ以上自動車以下の乗り物」というカテゴリが存在しているのだ。

自分で漕がなくてもよいというのが自転車に対する原付一種のメリットではあるのだが、それ以上のデメリットとして免許制度やヘルメット等の着用義務や置き場所の問題がある。特に置き場所は色々規制の強化で取り締まりが増えたりとアレコレあったらしいが、結果として以前のように路上に気軽に止められるという感じではなくなったようで、気が付いたら街で見掛ける路駐は自転車ばかりになった。かつては相当数の原付一種が同様に路駐していたのだが、すっかり塗り変わった格好だ。

そしてここらへんの「ママチャリ以上自動車以下の乗り物たち」の枠に最近では電動キックボードが増えることになる。法規についてはやや甘めというか、歩道も条件付きで走れたりヘルメット不要だったりするというところも考えられているようだ。原付一種は諸々の制限が微塵も緩和されないというのに。

世の中二輪ブームとは言うものの、その二輪の中に原付一種は全く入っていない。例えば大型バイクこそがバイクであるというのならそれも分かるのだが、実際には「原付二種は」大ブームなのである。ただ一つ原付一種だけが蚊帳の外なのだ。

こうなるともう、原付一種は虐げられ滅び行くカテゴリなのは間違いない。二輪車として乗りたいのであればせめて二種にしろということだろう。二種からが人権のある乗り物ということだ……おっと、この人権という表現も危ういもので、プロゲーマーのクビが飛んだりしたのも記憶に新しい。

とはいえ現状の原付一種が「人権の存在しない乗り物」と言っても誰も否定しないだろうとも思っている。

ゲーミング痕跡器官

巷に溢れるゲーミングなんちゃらの意味不明さについては既に多くの識者が突っ込んでおり今更ここで何か言うこともないような気もするのだが、そこに集まる批判の多くは電飾で輝く必要のないものを輝かせているから意味がわからないという意見に集約されている。

つまり、批判的な文脈で使われる『ゲーミング』という言葉は「なんかよく分からないが光ってる」こととほぼイコールであり、そうした電飾付きの何か対する蔑称になっていると言っていいだろう。何せ連中、隙あらばなんでも光らせようとしてくるのである。

かつてはファンにLEDが仕込まれただけで目障りだという意見が出た自作PC界隈も、ゲーミングのムーブメントを受けて今ではすっかり電飾に征服されており、ほぼデフォルトで光るようになってしまった。そういうのを嫌う層は今ではわざわざ光らないのを指定する必要に迫られているくらいである。

しかし「ゲーミング=光る」という認識に目を奪われてしまいがちだが、光らないゲーミング◯◯にもよく考えるとおかしなものは多い。その一つがゲーミングチェアと呼ばれる製品である。

これらゲーミングチェアが有名になったのはここ数年のことであるが、現在一般的にゲーミングチェアと呼ばれて販売されているものはいずれも車のバケットシートのデザインをモチーフとしている。

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・有名どころの一社 AKRACINGのモデル。その名の通りレーシングモチーフである。

何故PC用の家具に車? と思うのだが、なんとなくスポーツイメージがあるというところが打って付けだったのかもしれない。なにせ椅子を積極的に使う必要のあるスポーツといえばモータースポーツくらいのものである。どちらもモノを使ったスポーツであり、選手の実力と共にモノに掛けた金額がその勝敗を左右するというあたりもeスポーツとモータースポーツの共通点といえるだろう。

とはいえそのモータースポーツで一般的に使用されるフルバケットシート(可動部がなく身体が完全に固定される)はゲーミングチェアのモチーフとしては一般的ではなく、実際にモチーフとされているのはそれよりはライトな用途で使われるセミバケットシート(可動部があり一般にホールド性はフルバケに劣る)である。これには若干欺瞞を感じるところだが一方で用途を考えると仕方のないところもある。

本物のレーシングカーのシートは先に述べたフルバケットシートと言って可動部がなくクッションも薄い。これは高速でコーナリングする際の横Gに耐える為のものであり、同時にPC作業においては一切考慮される必要のない要素である。クッション性や快適性よりもホールド性や安全性を考慮したもので、当然室内用の椅子には向かない。

そもそも走行によって発生する各種のGに耐えなくてはならないモータースポーツと、それらのGが一切発生しないゲームを始めとしたPC作業は当然ながら性格の全く異なるものなのである。それでもモータースポーツのエッセンスを求めた結果、ゲーミングチェアの多くはセミバケットシートをモチーフにするに至ったのだ。

ところでバケットシートのデザイン上の特徴といえばなんといってもホールド性を高めるために張り出したショルダーや座面サイド部であるが、もう一つ欠かせない要素として背もたれに空いた穴が挙げられる。

この穴は何かというと、元ネタたるバケットシートにおいてはシートベルトを通す穴(ベルトホール)であった。強い横Gに耐える必要のあるレーシングカーにおいては市販車のような片側の肩だけを支える3点式ではなく、4点以上のベルトを用いて両肩や腰をガッチリとホールドするようになっている。このためシートにも予めこうしたベルトを通すための穴が空いているのである。

さて、先にも述べた通りPC作業に横Gは発生しないので、当然ながらシートベルトも不要である。一方でこの穴はバケットシートのアイコン的存在でもあるためか、ゲーミングチェアにも受け継がれた。そして用途を失った穴は痕跡器官のごとく───人間の尾骶骨のように、かつてヒトがサルであった証を示すが如く───ルーツを伝えるばかりになった……のかと思ったらそうではなかった。

枕の登場である。

そう、ゲーミングチェアは横Gの一切かからない状況で使用され、時にリラックスが必要ということからこの部分には枕が付けられることになった。そしてこの枕の固定の為にベルトホールは転用されたのである。ベルトホールにとってはさながら異世界転生といったところだろうか。異世界でも居場所を見つけられて何よりである。こうして感動の物語は幕を閉じた。

 

 

……なおここまで長々と書いてきたが、最近のモデルにおいては穴が空いているものの、この穴を枕の固定に使用しないモデルが出現していることも合わせてお伝えする次第である。

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・もはやベルトループ固定ではない

だったらいらないんじゃないかな、この穴。

ガチャのちがい(飛行機ガチャで旅に出よう、の巻)

当ブログにおけるガチャといえば、当然マイルガチャ(JALのどこかにマイル)のことであることは古くからの読者諸兄であればご存じだと思う。

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何度か記事にしているが、6,000マイルという比較的少額のマイルを支払うことで、選ばれた国内の四箇所の行き先の中から一箇所の往復航空券(というか座席)が手に入るというシステムであり、記事にしていない分も含めて既にこの方法を使って軽く10回以上は旅行に行っており使い倒していると言って良いだろう。

この6,000マイルが比較的少額というのがJALユーザー以外には伝わらないかもしれないのだが、仮に任意の日程・任意の路線でマイルを国内航空券に変える場合、往復航空券に必要なのは12,000~15,000マイルとなっている(羽田発北海道・九州沖縄などの比較的遠い路線は15,000マイル必要となっている)ので、行き先がランダムになるだけで半額以下で飛行機に乗れるわけである。故にすさまじくお得なのだ。

なお、JALマイルについてはJAL会員が他のポイント(Suicaやアマギフ、ビックポイント等)に交換する場合概ね1マイル=1円に換算される。つまりマイルガチャは6,000円相当で往復航空券(!)というわけである。

で、このガチャシステムに類似のものが最近始まった。LCC大手Peachの始めた旅くじである。既に関西で先行して始まっていたが、最近都内でも新たに設置されたという。

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似たようなサービスということで当然こちらにも興味が湧いたのだが、一通り調べてみるとこの二つのシステムはガチャ的なランダム性だけが共通したまったくの別物であり、また(どこかにマイルヘビーユーザーの贔屓目があるにしても)JALの方が完成度が高く感じられた。

しかし「旅行先がランダムになる代わりにお得に乗れる」というサービスの建て付けは全く同じである。この両者の違いがなんなのかというのは非常に分かりづらい。そこで、両者をこれから検討する人に向けて調べた内容を書き残しておくこととする。

──さて「旅行先がランダムになる代わりにお得に飛行機に乗れる」これが両者のサービスの共通点だが、これを実現する方法は全く異なっている。以下にその内容について述べていく。

まず、サービスの対象者だが、JALはマイル(が6,000以上貯まっている)会員のみが対象であるのに対し、Peachは誰でもくじを引くことが出来る。サービスを受けるハードルとしてはPeachが圧倒的に低いと言って良いだろう。

……ぶっちゃけると、Peachの良い点はここだけである。

次に、ガチャを回した際に起きることについて述べる。

[JALの場合]

  • ガチャを回すと希望の日程・時間に合う4箇所が提示される
    ※便に空きがない場合は提示されない場合もある
  • 選ばれた4箇所で問題なければ予約成立、即6,000マイルが引き落とされる
  • 3日以内に4箇所のうち1箇所の往復航空券が予約される
  • 行き先はJAL便で指定空港発・就航中のJAL便からランダムだが
    使用する機材・便数・ニーズ等で出現し易い行き先は存在する(後述)

[Peachの場合 ※都内実施分]

  • 5,000円支払ってガチャを回すと行き先指定及びポイント交換券が入っている
  • ポイントは公式には「6,000円分以上」付与される
  • この時点では予約はされないため、
    このポイントを使って別途予約を取る必要がある
    有効期限は22年3月31日まで
  • 行き先は成田空港からのPeach便11路線の中からランダム

と、実は結構違う。重要なのは、Peachの旅くじでを引いた時点では「航空券は確約されない」という点にある。また、行き先が確約されるという仕組み上6,000円以上のポイントを他の行き先に転用することも出来ない。

さて、では6,000円分+αというのは指定の行き先に対して足りるものなのだろうか。そもそもどのくらいの価値があるのだろうか。公式にも「ご購入時期により運賃は変動しますので、セールなどお得なタイミングに上手にお買い求めください」とある通り、実は足が出る場合があることを予め予告している。

そもそも、この旅くじには往復という言葉は使われていないので、これは片道のみを対象にしていると考えるべきである。

そうした中での両者の比較の例として、変則的ではあるが例えば一ヶ月後の週末にJALで引ける選択肢の中にある行き先と同じものをPeachでも引いたと考えて試算してみよう(ただし出発はJALは羽田・Peachは成田である)。

試しにJALで11/13-14でガチャを回してみたところ、三沢・熊本・長崎・宮崎の4箇所が選ばれた。この中でPeachでも就航しているのは長崎と宮崎である。

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というわけで、仮にPeachでもガチャを回し、6,000円相当のポイントを保有した上でどちらかに行くとする。この二路線について同日の予約に必要な金額を見てみよう。

長崎は片道5,690円。

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宮崎は片道4,890円である。

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つまり、良くても片道の航空券相当にしかならず、それにしたって金額的な旨味というのはほとんどないということになる。こうなると、会員専用の煩わしさはあるとはいえ、金額的な旨味ではどこかにマイルの圧勝と言って良いだろう。

では何故これほどの違いがあるのかである。ここからは推測含みにもなるのだが、まずはそもそもの両者の元々のビジネスモデルの違いも多分に存在している。

飛行機を飛ばすために最低限必要なコストが存在し、それは乗っている客の数に関わらず常にある一定の金額がかかるとする。すると当然どの航空会社も客がいっぱい乗っていた方がいいということになるが、実際にはその需給状況によって空席が発生する場合もある。

どこかにマイルが画期的だったのは「航空会社の都合で客を振り分けられる」ことにあった。というのは、普通は北海道行きが満員、沖縄行きがガラガラだったとしても、北海道行きを予約しているのは北海道に行きたい人達なのだから、沖縄行きに乗り換えて下さいなんてことは言えるはずもないからである。つまり、航空会社の都合で乗客の行き先を振替ることは不可能だったのだ。

しかしここに「行き先は何処でも良いから飛行機に乗せろ」という客が出現したらどうだろうか。ガラガラで飛ばしてもどうせ金は掛かるのだから、仮に普通よりも更に少ないマイルしか取れないとしても、空席にしておくよりは乗せてしまえばいいのである。それがつまりマイルガチャのシステムなのだ。このシステム故に、もし満席御礼でガチャ客を乗せる余地がないのであれば、その時はお前らにやる席はないと表示すればそれで終わりである。

一方のLCCでは、空席対策が最初からLCCの仕組みに組み込まれている。すなわち人気のないダイヤ・路線に関しては予めチケットを安くしておくことで、需要を均しておく仕組みになっているのだ。こうすれば、人気の便では高い値段を取れるし、不人気の便にもそれなりに乗客が集まり、トータルではキチンと収益が得られる……とまぁだいたいこんな仕組みである。LCCによくあるキャンペーン価格も、実際に予約しようとすると使いづらい平日早朝や深夜の便にしか設定されていないということもザラであるが、需要と供給を露骨に提示するのもまたLCCならではの手法である。そして、行き先のみが事前に決定するPeachのガチャでは、ガラガラの便に航空会社側から指定して乗ってもらうということは不可能である。だからこそ6,000ポイント+αの付与になるのだ。

また、JAL方式の場合は予約システムと半ば一体化しており、指定の日時で席が余っている便が提示され、申し込み後三日以内に予約まで完了する。このため頻出目的地として地方便やシーズンオフの沖縄など特定の行き先が出やすい(引く側にとって偏りはあまりうれしくないが、仕組みを考えれば人気便には乗れないのだから仕方ない)。

Peach方式の場合は予約とは無関係ということになるので、行き先選びという意味ではおそらくよりランダム性が高いと言えるだろう。しかし、席が余っている(≒金額が安い)便を引き当てられるとは限らない以上、引いた行き先や希望の日程次第では片道にすら足りず、更に数千円投入しなければ乗れない可能性すらある。

もちろん、6,000ポイント+αとあるので、遠方の比較的高額な行き先についてはその分の+αが付与される可能性もあるが、先の試算からすればそれも片道分が支払えれば御の字と言ったところだろう。旅程次第では復路の航空運賃は更に高額化する可能性もあるし、そもそも現金にして5,000円相当を予め支払っていることを考えれば(6,000ポイントは)特別安いというわけでもない。

最高に運が良いパターンは「6,000ポイントを得た上でその行き先にキャンペーンが適用され、6,000ポイントで往復航空券相当と引き換えることが出来る」だろうか。しかしこれもよくよく考えてみれば、ガチャを引かなければ現金6,000円で同じことが出来ることになる。その差は1,000円(+α)程度しかなく、しかも行き先に制限がない時点で自由度は段違いである。

つまるところ、もし旅くじが説明の通りであるならば、このガチャというのは無限の可能性を持つ5,000円を支払って期間内かつ指定の行き先にしか使えない6,000(+α)ポイントに換えるという、いわば「少し気の利いた足枷」を購入する行為に他ならないのである。

もちろん多少の制限があった方が燃えるというのであれば止めはしない。とはいえ、同じPeachでもその5,000円で普通に航空券を買った方が良いのではないか……というのがこうして調べた限りでの率直な感想である。

世界のバランスを取るということ

日常会話や雑談において、よほど親しい仲でもなければ避けなければならない話題というものが存在する。代表的なものが政治・宗教・野球の話題である。

これもググってみると枕詞に「顧客としてはいけない」「友人としてはいけない」「バーで話題にしてはいけない」などのバリエーションがあり結局のところどういう状況でなら許されるのかイマイチ不明瞭なところがあるのだが、おそらく真意としてはいずれも「何処に地雷があるのか分からない話題なので、避けておいた方が無難」といったところだろう。

いずれの話題もライトなものであればそれほどタブー視されてはいないが、一方でそれによって話が盛り上がった先の意外なところに地雷が埋まっている可能性がある。万一その地雷を踏んでしまった場合喧嘩となり会話どころではなくなってしまう。こうした軋轢を避ける為に予め避けておいた方が無難ということである。

またこれには、話している相手が必ずしも多数派の支持者ではないにも関わらず、一方でそれを話題にしようとするものはたいてい圧倒的多数派であるというねじれの結果、暗黙のうちに多数派の常識を押しつけ、その結果無自覚に少数派をDisる態度が表れてしまう(そしてそれがすれ違いをもたらす)という戒めでもないかと思っている。

話題は変わるが、皆様は近年アニメ・ゲーム等の女性キャラクターの胸が盛られる傾向にあると感じてはいないだろうか。これはまったくの肌感覚でありエビデンスは存在しないのだが、例えばソーシャルゲームなどにおいては基本的に胸のサイズは盛られる方向にあると感じている。

また、そうした原作が存在するキャラクターに対して更に二次創作的にイラストや漫画が描かれる場合に、さらにその作者の嗜好によってアレンジ要素として胸が盛られる場合がある。こうした場合、あまりにも原作と異なる見た目となったりキャラ設定を破壊するもの(設定年齢に対して異常など)については特に巨乳化などの明示的タグが付けられる場合もあるが「多少盛った」くらいでは改めて言及されることもなく、また見る側からことさらに指摘されることもない。つまり、基本的には乳を盛る行為については自然に受け入れられているのである。

もちろん、現実社会に目を向けてみればこの数十年で日本人女性のバストサイズは拡大の一途にあるというデータも存在しており、そうした傾向を踏まえれば基本的にはサイズアップが自然であり、また大きいことは良いことだという価値観が存在するのも理解は出来る。

だが、陰と陽、プラスとマイナス、それらのバランスによってこの世界が成立していると考えると話は変わってくる。というのは、これほどまでに広く受け入れられた「胸を盛る」という行為に対して対になる概念の「胸を削る」という行為は拮抗する勢力たり得ていないからである。プラス方向(盛る方向)への圧力が圧倒的なのだ。

本来であれば貧乳キャラに胸を盛ることに対して逆方向の動きもあってしかるべきだが、それらは勢力としてはあまりにも小さい。例えば2021年10月9日時点のPixivでは「巨乳化」タグ10,989作品に対して「貧乳化」タグ710作品とケタが二つ異なっている。

事実上の貧乳化──胸を削る要素──としてロリ化(低年齢化)の概念があるが、胸を盛る行為については必ずしもバストサイズ以外の改変を伴わないので、乳を盛る行為に対するカウンターパートではなく別の概念であると考えた方がよいだろう。

そして先にも述べた通り「ちょっと乳を盛る」程度でタグ付けのないサイレントな巨乳化はあまりにも自然に行われており、こうした暗数まで数えれば、胸を盛る行為と削る行為の差はおそらくもっと広がるのではないかと思われる。

つまり、このままでは世界は無限に胸が盛られ続け、際限なく基準のバストは拡大していき、やがて世界は巨乳に覆い尽くされてしまうかもしれないのである。

……そこまで急進的ではなくとも、基準点(?)が年々上方にシフトしていることはなんとなく感じられるのは先に述べた通りである。

そして、胸を削る行為は胸を盛る行為ほどポジティブに考えられていない節がある。例えば貧乳化においては「元々胸に対して自負を持っていた巨乳キャラに対する罰や戒めとしての貧乳化」という概念が存在しており、これは胸を削っているようでいて、実のところ胸は盛られるべきであるという考えの現れである。

こうした現状を鑑みるにこれは多数派の常識が押しつけられた結果であり、世界のバランスが崩れているのではないかと言える。プラス方向への圧力のみが存在するのは健全ではない。よって新たな新世界秩序構築の為に巨乳キャラの胸を削り続けるレジスタンスが現れるべきなのではないかと考える次第である。

なお、怒られそうなので最後に取って付けたように胸に優劣はない旨書き添えておく。胸だけに。

お後がよろしいようで。

リアルとバーチャルを撮るということ

ある日Twitterを見ていると、このような記事が回ってきた。

pentaxofficial.com

詳しいことは各自この記事を読み進めて欲しいのだが、いまやゲームのグラフィック(3DCG)は実写と見紛うばかりに進歩を遂げており、そうしたゲームの中には美麗な景色の中でプレーする自分の姿を「撮影」出来るものが増えている。つまり、ゲーム内に「写真を撮る」という行為が組み込まれるようになった……という事例から、ゲーム内写真は写真たり得るのか、ゲームから写真家は生まれるのだろうかといった新たな問いが生まれているという話である。

さて、写真とゲームの関係性という意味では、写真を撮ること自体をゲーム化したものは以前から存在していた。

記憶している限りではナムコアーケードゲームに写真を撮るものがあったと思う(タイトル失念)し、コンシューマ向けとしてはポケモンスナップ(N64)などが存在した。少し下ってAFRIKA(PS3)なんかも写真を撮ることを主題に据えており、現実に存在するソニー製のカメラを使用する辺りは新しかった(レースゲームに実在車種が登場するようなものだ)。

しかし、基本的にはそうした「撮影行為をゲーム化した」ゲームというのは皆広義のシューティングゲームと言える。そもそも写真撮影自体に「shooting」の語を当てることがあることからもわかる通り、特定の被写体をカメラに収めるということはアクションであり、狙い撃つということとほとんど同義語なのである。なのでこれらは銃を使わないシューティングゲームであると言って良いだろう。そういえば銃とカメラには親和性(?)があり、かつては射撃訓練のために機関銃を模したカメラが作られたほどであった。

一方で、最近のゲームに搭載されている写真モードやスクリーンショットというのはその撮影行為自体がアクションでありシューティングであるというわけではない。つまり、ゲームと写真の関係性の中で「ゲームの中にある写真撮影機能」と「写真撮影をゲーム化したもの」というのはそれぞれ分けて考えなければならないだろう。前掲の記事が論点としているのは「ゲームの中にある写真撮影機能」の方である。

さて、先の記事を最初に読んだ時に最初に思い出したのは、グランツーリスモシリーズにおける写真撮影機能のことである。中でもソニーのサイトに掲載されている下記の記事は、本来ならばカメラの販促記事として制作されたものだとは思うが、ゲームの側の視点から見ても非常に興味深い内容となっている。

www.sony.jp

ご存じでない方に簡単に説明すると、グランツーリスモシリーズというのはPSプラットフォームを代表するリアルに振ったレースゲームのシリーズであり、各世代において最高峰のグラフィックを標榜した作品となっている。中でもPS3以降の作品では出る度に「実写と見紛う」といううたい文句で紹介されている……そんなゲームである。

で、このゲームには写真撮影モードが実装されており、自分がプレーしたレースを任意のタイミングで止めて写真撮影する他に、予め用意された背景に車を置いて撮影するというモードもある。この記事ではその背景の作り方について触れている。

シリーズ旧作においては、この背景というのはフルに3DCGで作り込まれていた。そこに置く車も3DCGなのだから馴染みもいいし、様々な角度から撮影出来るというメリットも生まれる。ただ、フォトリアルな3DCGを大量に作るということは当然労力が必要な為、選べる背景の数というのは非常に少なかった。現に前作のGT6発売時に選べた背景の数は5種類程度しかなかった。

一方で、現行最新作であるGT SPORTの背景の数はなんと1,400種類に及んでいるという。これは何故かというと、背景を3DCGで作り込むことをやめ、写真をベースにしたからである。これにより各種オブジェクトを作り込む必要がなくなり、大量の背景を実装出来るようになったのだという。

もちろん、背景の元になる写真を一枚撮って終わりというわけではない。ここにはもちろん写真と並べても見劣りしないほどの高精細な3DCGが実現可能になったということや、それら3DCGが置かれた際にどのようにボディへ映り込むのか、路面への灯火類の反射や影が付くのかといった部分が作り込まれている。だからこそプレーヤーは「まるでそこにあるような」画像……というか「写真」が撮れるのである。

つまり、少なくとも現在のグランツーリスモというゲームにおいては実写グラフィックと3DCGグラフィックが高度に融合し、その結果として現実の写真と見比べても違和感のない写真が撮れるようになっていると言える。見た目の面で既にリアル≒バーチャルなのだ。

この結果同機能はユーザーの支持を得て、先の記事の時点で既に6,000万枚の写真が撮影されたという。考えてみれば、プレーヤーが自分の愛車を格好良く撮ってアップするというのは、車好きが現実の自分の愛車をSNSにアップするのと同じことである。そういう意味でもこれは現実の写真と何ら変わることはない。

さて、写真の画質というか、リアルさという点においてはもはやゲーム内の写真は現実の写真と変わらないところまで来たということは判明した。ではもっと情緒的な……と言ったら変だが、写真を撮影するもっと原初的な部分においてはどうだろうか。例えば人々が撮る記念写真といったものである。

実はこれもまた、ゲームにおいては古くから行われてきた。

例えばネットゲームにおいてユーザー同士の結婚式が開かれたり、ある特定のクエストが終了したところでパーティーメンバーと集まったり、あるいはサービス終了時にロビーで皆が集まったり……折々において記念写真(スクリーンショット)が撮影されており、それ自体は決して珍しいことではない。純粋なゲームではないがVRchatなんかも写真を撮り合う文化があるように感じる。

写真の定義は多々あると思うが「個々人の何かを残したいという思いにより静止画が残されるもの」を写真と呼ぶのであれば、これらは紛れもなく写真である。そこにはフォトリアルの要素はないが、原初的な意味ではとても写真らしい写真であると言える。

そして「そこにはフォトリアルの要素はない」というのはこれまでのそうしたゲームがフォトリアルなゲームではなかったというだけの話であり、実際問題としてフォトリアルなグラフィックのゲームであっても同じことはきっと起きるはずである。

また、先の記事にあったような(いわゆるネットゲームではない上に、比較的フォトリアルな)Ghost of TsushimaやSEKIROにおいてプレーヤーが自キャラを格好良く撮ることもまた、自撮りの一形態と言い換えることも出来るだろう。また、特定のステージに到達した証拠としてのゲーム内写真は到達証明であり、観光地における看板の前での記念写真と同じ意味を持っているのではないかとも思える。つまり写真が撮影される理由というのは、リアルでもバーチャルでも根っこは同じなのである。

とはいえ、ある時期まで「ゲームはゲーム、現実は現実。あくまでも別物」と切り分けられてきたものがここに来て急速に近づいているように感じられるのは、ゲームが一段とフォトリアルになったこと以外に、ゲーム的3DCGアバターの手法が逆輸入されたバーチャルユーチューバーの隆盛であったり、もっと言えば現実で対面のやりとりが難しくなり、ビデオ通話と言った間接的手段を通してのコミュニケーションが急速に広がったりして境界が曖昧になったことなんかともおそらく無関係ではないのだろう。

かつて携帯で撮った写真は写真ではない、少なくとも芸術写真としては認められないのでは……というような議論があったものだが、今となってはそのような議論はもはや遠い昔の出来事であり現在では「何で撮ったとしても写真は写真」というところに落ち着いているように思える。言い換えれば「写真と見なせるものが出力されるのであれば、それがカメラで撮られている必要は無い」とも言える。

そして今、バーチャルでの撮影行為は「リアルさ」「それが撮られる理由」それぞれの面において現実の写真とほぼイコールたり得るのだから、被写体がバーチャルであってもリアルであっても「写真は写真」と見なされる未来というのはそれほど遠くはないのではないかと思える。

こうなると写真とは何かという根源のところに踏み込んでしまい、それならばそもそも自らが撮るということは必須の要件ではないのではとかそういう議論も始まってしまうのだが、そこは多くの人が現実で写真を撮るという時の心の動きはバーチャル世界においても同じであり、そうであれば現実の写真とバーチャルの写真はイコールたり得るのではないか……という話として考えて欲しい。

とはいえそうなると、こうしたバーチャル世界における写真の呼び方にも一工夫が必要なのかもしれない。既にこの記事の中でも何度も異なる文脈で「写真」という言葉が出てきて既に読者の方も混乱しきりだと思うが、なにせバーチャルを写しているわけだから、よくよく考えてみれば「マコト(真)を写す」という意味での写真という語はちょっと都合が悪い。

かといって、写真という言葉を嫌う(=写真というメディアは必ずしも真実を写しているわけではないので「真を写す」という言葉が誤解を招くと考えている)人達がよく使う言い換えであるところの「光画」にしたって、そもそもバーチャルの光は光なのかという点において納得が難しいところである。

つまりバーチャルを写したものは字面からいえばおそらく写真でも光画でもないのだが、しかしそれを何と呼ぶんだろうかと考えると、やっぱりそれは紛れもない写真なのである。