インターネット

無名サイトのつづき

解像度、いる?

些細なモノゴトの違いにも興味と関心を持ちそれを日々の生活の楽しみとする、という考え方がインターネット上でメジャーになって久しい。そして、こうした概念を表す言葉として「解像度」なる言葉もまた一般的になっている。

試しに「生活 解像度」とか「日常 解像度」とかで検索してみれば、こういう用法がすぐに出てくるので、まぁ一般的に通じるものだと言って良いだろう。

個人的には、解像度が変わったように感じられたとしてもそれは生活や日常自体が変化したわけではなく、それを過ごしている側の認識(≒性能)が変化したからなので、こうした概念については解像度ではなく分解能と言った方が適切ではないかと思っているが、今回の記事では一般に通じる解像度という言葉を使用する。

正直、この解像度という概念には食傷気味である。

というのも、こんなことはカネのない人間であれば普通にやってきたことであり、そこら辺に今更乗り込んでドヤ顔されてもみたいな部分があるからだ。

代わり映えのしない日常に些細な楽しみを見出してそれをエンタテインメントとするというのは、そもそもお金を出して有料のエンタテインメントを摂取できない人間が、基本プレー無料の日常においてどうにか楽しみを見出そうとして開発したものであると思っている。なので、日常における課金プレー勢には本来無用なものなのである。

無課金勢はそれしかないからそうしているだけなのだ。デイリーボーナスだけで必死にガチャを回して、それでなんとか楽しもうとしているだけに過ぎない。一種の縛りプレーだが、好き好んで縛られているというわけでもない。10連回せるならそうしている。

ところがこうした事実を知ってか知らずか、課金プレー勢はこうした些細な楽しみを新たな素晴らしい概念であるとし、物見遊山で無課金勢の土俵に乗り込んでくる。連中のやってることというのは既に高レベルの本アカがあるのにサブアカで低レベル帯に乗り込んできて初心者狩りを楽しんでるようなものである。だからこそ余計に腹が立つのだ。

そしてもう一つ、そうやって解像度の概念をつまみ食いしている連中はあまり気付いていない(というか、つまみ食いだから気付かずに済んでいる)問題に、解像度の暴走がある。些末な部分に対する解像度が高まり続けると、本筋が見えなくなってしまう現象である。

解像度というものは、言い換えてしまえば本筋とは無関係な枝葉の部分に付随する膨大な知識のことである。例えば「今目の前にスマートフォンがあるかどうか」という問いに対してただ「スマートフォンがある」と認識するのか「今目の前にあるのはApple製のiPhone12であり、OSのバージョンはxx、キャリアは○○、製造したApple社はカリフォルニア州クパチーノに本社を置くアメリカ合衆国の多国籍テクノロジー企業であり1976年に……(以下略」と無限に続けられるかどうかの違いである(これは単なる一例なので、これとは異なる分岐も存在するが、その場合も解像度が最高に高まった人間の場合おそらく小一時間は続けられる)。とはいえ、これらは全て枝葉の部分であり今必要とされているわけでもない。問いに対する回答は「目の前にスマートフォンがある」だけで十分である。

これらが日常に転用されると、例えば道を歩いていたら信号機についても個別にメーカーが存在し、メーカーごとに特徴があるだとか、マンホールや電柱にはそれを管理する団体ごとの特徴があったりということに気付いたりする。単にそこら辺を散歩する上では全く不要な情報だが、これらによって「日常の解像度が高まった」ように感じるのである。これが解像度の概念である。

しかし、この解像度が暴走すると、まったくもって不幸なことになる。本筋よりも枝葉の部分の解像度の方が気になるようになってくるのだ。

皆さんはSNS上でアニメ等において「○○という作品は××の描写がなってないからクソ」とDISる人達を見かけたことはないだろうか。彼らはいわば解像度の犠牲者である。

例えば主人公達が電車に乗って移動する、そんなシーンで「この絵はxxx系だけど音が○○系だから一致してない、萎えた、もう見るの辞める」みたいな意見が出たりする。この不一致が作劇上致命的であればそうした意見も納得出来るのだが、多くの場合はこの齟齬というのは本筋にはまったく関係していない。本筋はそこには無いのである。彼らは枝葉に引っ張られて本筋を断ち切ってしまったわけだ。それは果たして、幸福な選択と言えるだろうか?

こうなると、もはや重要なのは解像度そのものではなく、自分が好きなときに解像度をオンオフあるいは加減出来ること──つまり、時には解像度を落とすこと──なのではないかと思える。本筋に対するS/N比と言い換えてもいいかもしれない。

行きすぎた解像というものは、時にノイズと区別が付かないのだから。

企業サイトを読む:パルスオキシメーターの歴史について

仕事中に色々な企業のwebサイトを閲覧するのだが、本来の目的である調べ物を終えた後も、ついそのまま製品情報だったり沿革といった余計なページまで見てしまうことが多い。

これは古のインターネットにおいて、初めて訪れたサイトはまずaboutやprofileのページをじっくり見てから巡回する……という謎の習慣が身に染みついてしまったからではないかと考えている。余談だが昔の個人サイトではこのprofileのページに管理者が使っているPCのスペックを書き出すのが当たり前だった。今考えるとちょっと不思議な風習である。すっかり見なくなったなアレ。

閑話休題。そうした企業サイトでは、製品におけるちょっとしたトリビアとして開発ストーリーやヒット商品の開発者のインタビューが掲載されていることも多い。というわけで、今回はいつもの当サイトからはやや趣向を変えて、そうした偶然見つけたストーリーで面白かったものを取り上げる。

さて、未だに世の中はコロナウィルスの脅威と戦い続けており、このウィルスとの戦いの中で急に身近になった概念も多い。酸素飽和度という概念もその一つだろう。

新型コロナウィルスの症状の一つとして肺炎があり、酸素を取り込める量に直結することから重症化度の指標として酸素飽和度が用いられており、現在ではニュース等でもよく目にする言葉である。だが、コロナウィルス以前の世の中では大病をしない限りは意識することもなかったのではないだろうか。

そしてこの酸素飽和度を測る機器がパルスオキシメーターである。現在では一部のスマートウォッチにも簡易的なものが搭載されているが、元を正せば医療機器であり本来であれば採血しなければ測定できない酸素飽和度がほぼリアルタイムに測定出来ることから今では医療機器の基本機能の一つになっているようである。

そして実はこの機器は日本が発祥の機器だったりする。

医療機器メーカーとして知られる日本光電工業が1974年に特許を取得し、翌1975年に発売したイヤオキシメータが現在に繋がるパルスオキシメーターの一号機とされており、製造元の日本光電工業も特設ページを用意してこの事実と発明者の青柳氏をアピールしている。

www.nihonkohden.co.jp

通常であればこれだけでもトリビアなのだが、実はもう少し調べてみると面白い記述が見つかった。同様にパルスオキシメーターを製造するコニカミノルタ(合併前のミノルタ側の事業)にも同様の解説ページがあり、ここではまた違った視点からの解説がなされている。

www.konicaminolta.jp

両社は一ヶ月違いで同様の特許を出願しており、発明元の栄冠は一ヶ月先行した日本光電工業の側に輝いている。ちなみに特許出願内容はこれこれのようだ。お時間のある方は読み比べてみても面白いかもしれない。どちらも既存の機器の準備に手間が掛かる点や位置ずれによる問題などを解決しようとしていることがわかる。

そして、実のところどちらのサイトにおいても、この機器が画期的ではあったものの、決して即座に大ヒットしたわけではなかったことに触れている。日本光電工業側では「着想としてはまさに世界に誇るべき独創的かつ優れたものでしたが、光源は豆電球でセンサの感度も悪いなど、性能や使い勝手の面でまだ改良の余地が多く、需要が伸びないまま、諸事情により開発は中断しました」とあるし、コニカミノルタ側の記述でも「パルスオキシメータの技術・商品は日本で生まれましたが、本格的に臨床で使用されたのはアメリカにおいてでした。ミノルタカメラがアメリカにパルスオキシメータを持ち込みましたが、アメリカのバイオクス社・ネルコア社がその技術を改良し、麻酔中のモニターとしてパルスオキシメータが定着しました」とある。要するに、日本生まれの技術ではあったものの、日本では定着しなかったという話なのだ。ただ、米国で定着したことから日本光電工業は中断していた開発を再開し、現在では同製品のパイオニアとしての立場を取り戻した……といった流れのようだ。この米国の事情および米国メーカーが普及に果たした役割というのは、日本の両社共に認めているところなのである。

また、企業サイトではあるので当然抑えた筆致ではあるものの、コニカミノルタ側では現在の仕組みとはやや異なるものの近い機器が1940年代から存在していたことについて触れていたり、特許に関しても日本光電工業の出願に対して一ヶ月弱遅れたものの同様の特許があったことをアピールしている(前述)。

特にミノルタカメラはOXIMETの商品化以降、現在まで途切れることなくパルスオキシメータの開発、製造、販売を続けております」という一文は、明らかに途中で辞めたことのある会社に対する、何らかの感情が込められているように思えてしまうのだが、これは果たして穿ち過ぎだろうか?

インターネットは今でも誰かを救っているのだろうか、それとも

 

久しぶりにはてなブログのトップページを見て、ふとこんなものに気付いた。

blog.hatenablog.com

ここは元々日陰にあって、文学賞を含むキラキラしたイベントに参加するようなブログではない。だが、その一方でこのブログにはいつだってインターネットに対してのひねくれた気持ちをぶつけてきた。インターネットそのものがテーマだというのであれば、日陰から一言くらい書いてもバチは当たらないだろう。

なんせ当のサイト名がインターネットである。ちなみになんでこんな名前になっているのかというと、これは仮にサイト名がバレても一般名詞にしておけばそうそう検索に引っかからない(リアルとネットを分離する)という古のテクニックから生まれたものである。もっとも、今の世の中ではそんなことを気にする人の方が希かもしれない。この話に首をかしげる人は、かつてはそういう文化があったということだけ頭に置いて欲しい(これ以降文中の「インターネット」はサイト名ではなく一般名詞を指す)。

というわけで、インターネットについて書いていきたいのだが、自ずと内容は自分語りに近づいていく。自分語りというのはかつてのインターネットにおいて(ひょっとしたら現在でも)最大限に嫌われた行為の一つである。しかしインターネットがある意味で不定形で各々の捉えた姿が異なる以上、いろいろな視点からの思い出話も必要になってくはずだし、だからこそ上記のような「個々人のインターネットを振り返る」的な企画も成立するのだろう。

もちろん、インターネットの通史的なものは一応存在するのだが、実際の所個々人にとって年表に載っている出来事なんてのは割とどうでも良くて、その瞬間ごとに強く影響を受けた個人サイトやブログというのも皆同じではない。

そういうわけで、あくまでの個人の感想ではあるが、このブログや過去の記事を通したインターネット観といった形でインターネットについて綴ってみたい。以下の内容はいわゆるゼロ年代から現在に至るまでの内容となる。個々の認識は当時の感覚(それも個人の感想)と思っていただければ幸いである。

で、先の「ひねくれた気持ち」というのはこのブログ最初の記事で既に現れている。実際の所言いたいことの全ては既にそこで言い切ってたのかもしれないけど、こういうテーマなので改めて再掲しておく。

seek.hatenadiary.jp

この記事からはもう10年くらい経つのだけど、今でもこの気持ちはあまり変わっていない。先の通りインターネットの実名主義SNSの隆盛なんかも、この頃には既にハッキリしていた。ゼロ年代が終わり10年代が始まる頃には、インターネットもまた変化の時代を迎えていた。かつてのインターネットが持っていた「個人が全世界に直接繋がれる感覚」「匿名ベースによるフラットな価値観」なんてものは結局幻想に過ぎなかったのだけど、それが幻想だったということに苛立っていたのがここを立ち上げる切っ掛けだった。インターネットも現実になってしまったのだ。

ただ、こうしたブログ(や前身のはてなダイアリー)すら、かつて誰も見に来ない日記サイトの管理者だったものにとっては既に馴れ合いと内輪の象徴であった。いわゆるはてな界隈といったものがバチバチに喧嘩しているのもよく見たが、まぁそれも含めてはてなは限られた有名アカウントが馴れ合いを繰り広げる世界だし、トラックバックやコメントが実装されたブログというのもだいぶ軟派なものに感じられた。一方でそれ以前の個人サイトには反応なんてなくて当たり前だったのだ。そしてそれでも続けるというのがそうしたサイトにとっての矜持であった。

とはいえ、内輪というのはその内側に入ってしまえば本当に心地が良い。打てば響く相手がいるのならばそちらに向けて発信する方が気持ちがいいのは当たり前の話である。こうした認識はいずれインターネット全体に広がっていき、斯くしてある時期以降のインターネットはwebサイト主体から個人(アカウント)主体へと変化していった。

かつては特定の人を指すときに「○○というサイトの管理人XXさん」だったのが、いつしか「XXさん(○○というサイトもやってる)」という風に変化していったのである。インターネット上の主体は、モノ(サイト)ではなくヒト(アカウント)になったのだ。

このような変化の結果、コミュニケーションの主体はwebサイト同士のそれから中の人同士のそれへと変化した。こうした変化について綴ったのが下記の記事である。

seek.hatenadiary.jp

この記事ではかつて行われていたwebサイト同士のリンクといったものが消滅していった結果、webの名の通り相互に繋がり合うメッシュはもはや成立せず、現実的には個々のサイトに対して検索サイトだけが繋がるハブアンドスポークになっていると指摘した。そしてそれを代替する存在がおそらくはSNSであるということも。

実際、現在(インターネット上に存在する人格としての)ヒト同士をつなげているのはSNSであることは疑いようもないだろう。

しかし、SNSというのは先にも述べた通り、つまるところ内輪のコミュニケーションである。そして匿名性の薄れたSNS上では、現実世界での地位や功績といったものが補助呪文のような効果を持っている。ある意味で、現実をコピーしてペーストしたようなものなのだ。

そして、現実世界に疲れてインターネットを新天地とした者にとって、そこにまで現実世界がついて回るのは一種の地獄である。特に一時期のインターネットは匿名掲示板を代表とする匿名・殺伐・無頼の空気が色濃く残っており、そうした時代を生きた人にとってはインターネットとは現実とは無関係に身体一つで身を立てられる、ある意味実力主義な場所だった為、それに反する馴れ合いというのは最も嫌うものだった。

しかしこれもコインの表と裏で、適切な「内輪」に入ってしまえばこれほど心地よい場所もない。SNSはそうした「内輪」を上手く成立させるシステムであり、多くの人にとっても有効であった。それはかつて彼らが馴れ合いと呼んで嫌ったものであったとしても。

つまりは矛盾なのだが、しかしどちらもインターネットの一面である。

かくして矛盾した気持ちを抱えながらも、結局のところインターネットから離れることは出来なかった。SNSに活動の主体を移しながらも、矛盾に引き摺られる形でこのブログも続いてきた。なんせ完全に割り切れるのであれば、誰も見ていない/反応がもらえないブログなんかに書く必要は一切ないのだ。Twitterにでも書き散らして2つや3つのfavが付いたならそれで分かってもらえた感──いわゆる承認欲求──が満たされてそれで終わりである。現代ではそちらの方がずっと健康的かもしれない。

そして多くの人はもはやそうしているように感じる。今や個人サイトやブログというのは数を減らす一方だからである。なのに矛盾を抱えたままだから今でもここがある。徹頭徹尾、ひねくれたブログである。

そして実際、仕組みとしてのSNSには限界も感じる。かつてのmixi等がそうであったように、アカウントの取得を前提として半クローズドの仕組みはそこで生まれた知見を後から追いかけることが著しく困難だし、そもそもアカウントベースのサービスの場合、発言者のアカウントが失われてしまった場合はログすらも残らない(まぁこれは個人サイトも同じだが……)。また、SNSにおける話題はもはや流速が速すぎてその日のうちに鮮度が失われてしまうことも多く、これもまた残らない。

現代においては速報性・リアルタイム性を重視したメディアとしてのインターネットばかりが盛り上がっており、かつてあった資料性というか各自の知見の保管庫としてのインターネットは一時期よりも後退してしまったように思えてならないのである。

そう考えると、SNS以外に書かれてこそ輝く情報も存在すると思うし、SNSと既存の個人サイトは補完し合えるのではないかと思うのだ。

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とはいえ、個人サイトには反応が(SNSに比して)少ないor存在しないというのは続けるモチベーションを保つ上で大変難しい問題である。そこを考えると、やはりオールドスクールなインターネットは狂人のものなのだ。しかし、かつてのようなインターネットに救われた者の一人として、やはりインターネットは何処で使うのか分からない無茶苦茶な知見で溢れていて欲しいし、誰かを救う存在であり続けて欲しいと思っている。

インターネットも現実だが、しかしまったく現実そのものというわけでもない。現実の愉快なサブセットとして、はみ出し者を迎え入れたり、バカバカしいことばかり書いてあったり、あまりにもニッチな趣味で盛り上がったりしていて欲しいし、そうしたものを発見して驚いたりし続けたいのだ。それが今も昔もインターネットに求めるものであり、だからこそこのブログは続いている。

まぁ正直なところ個人サイトで無料で公開したところで反応もないし1円にもならないというのであれば、反応のあるSNSで発表したりn○teで有料公開した方がいいというのはまったくもってその通りである。それでもn○teとかに行かないのはかつての基本無料インターネット育ちで「ここから有料」という表示を見た瞬間に即戻るボタンをクリックするような人間だからである。かといって無料で公開するならあそこで書く意味なさそうだし。

……閑話休題。最後に、当ブログで過去最大のブクマ数を記録した記事を貼っておく。このような思いもよらないことがあるからインターネットというものはサイコーに面白かったのだ。そしてきっと、これからも面白い。たぶん。

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放置車を直す

ここのところ、長いこと放置していた原付を直している。

手元の原付はホンダのXR50モタードというやつで、今となっては絶滅(!)してしまった50ccMT車のほぼ最終世代にあたる。というか調べ直していて50ccMT車はおろか2021年現在では50ccというカテゴリがほぼ絶滅していたことを知った。

上からは二輪免許が必要とはいえ様々な制約が無く維持費も安い原付二種が、下からは電動を含めた小型モビリティやスポーツ自転車が勢力を伸ばしてくる中、もはや50ccというカテゴリは不便なだけの代物ということなのか国内では風前の灯火のようである。趣味性の高いクラッチ付きMT車やスポーツモデルは既に消滅して久しい。

さて、この原付は高校時代から乗っていたCD50Sが色々あって限界を迎えたため大学時代になってから新車で買い直したものだ。余談だが当時はRZ50の生産終了の時期で2st最後の世代ということで本当はそっちが欲しかったのだが、既に在庫車にプレミアが付きつつありそれに比べれば安かったXRに落ち着いたという経緯がある。当時も既に2stが事実上閉め出され50ccの退潮傾向は明らかであったが、それでもバリエーションは今よりも遙かに多かった。

まだ当時はスクーターもスポーツモデルと言えるディオZXやジョグZRが販売されていたし、それらの2stモデルの中古もそれなりに豊富にあった。MT車も複数種類から選べたし、4st化によって一通りのモデルが刷新されたのである意味原付一種にとっては最後の黄金期だったように思える。

そんなわけで、CD50Sが気に入っていたので次もMT車ということでこうなったのだ。が、5,000kmほど乗ったところで大学卒業となって以降は通学の用途もなくなってしまい、10年以上カバーもかけずに家の軒下で放置されることになってしまった。

話は変わるが今年もコミケがなくて盆の予定が空白なことに気付き、また時同じくして横須賀と門司を繋ぐフェリーの就航が開始された。以前からレンタカーではなく自分の車両を持ち込めるフェリー旅に興味はあったものの、自動車を載せてしまうとそれなりの費用がかかり、このご時世に何人も集めるのは困難だし一人では割高で二の足を踏んでいた。しかし原付ならと思い調べてみると考えられなくもない金額。そもそも車と違って陸路で同行程をこなすという選択肢が事実上取れないので、これはアリなんじゃないかと考えた。

というわけでなんとか再度原付を乗れるようにと思ったのだが10年以上の放置で各所は錆び付き機関は不動となっていた。幸い車の整備の為一通り工具は揃えていたので自分で整備とアップデートを行ってみた。

まずタイヤは新車時のもので流石に新品交換するつもりだったのだが、某中古店に行ったら製造年が昨年の中古ハイグリップタイヤが山のように転がっていた。このサイズはミニバイクレースで使われるのでそれ用らしい。レースで使われたので端はともかく真ん中は溝が残っており、今よりマシだろうと思い購入。近所のバイク屋で半セルフ(タイヤ単体にするまではこちらで作業)で交換し、結局前後タイヤ代含めて4,000円以内に収まった。

キャブは念のため分解し、特に問題なかったので組み戻し。その際にキャブ→インマニ間で径を絞っているインシュレーターを交換しエアクリーナーボックス入り口のゴム製インシュレーターも同様にニッパーでちまちま切って径を拡大しておいた。貧乏チューンというやつである。

チェーンは交換のつもりだったのだが購入したものが微妙に長かったため結局古いものの張りを再調整して使用。エンジンオイルはこれも入れっぱなしだった為四輪用のオイルをフラッシング的に使用してその後二輪用を入れ直した。

このあたりで公道復帰は叶ったので、あとはツーリング用にバッテリーレスキットを併用した直流電源の取出しを行い、Amazonで1,300円で売っていた中華電気式タコメーターと同じく1,300円くらいのUSB電源とスマホホルダーを増設した。XR50モタードは元々バッテリーレスで交流電装車なのでこの辺りが面倒だったが、基本は同時期のエイプと同じなので資料が多く助かった。

あとは積載皆無なのでキャリアとバッグを購入し長距離の準備は整った。余談だがここが今回一番カネが掛かってる気がする(キャリア新品15,000円・バッグ中古7,000円)。

ちなみに、これはあくまでも公道復帰でありレストアをやっているという意識は全くなかったのだが、どうも10年以上放置された不動車を動くようにするのは傍目に見ればレストアらしい。言われてみればそうかもしれない。

というわけで久々に原付を弄ってるわけだが、原寸大のオモチャといった感じで面白い。趣味者の理想とも言われる四輪+二輪の六輪生活……そのうち最も貧乏寄りではあるが、これはこれでいいものだ。

続・テンバイヤーを考える

ここには以前にもテンバイヤーについての記事を書いたことがあったが、あの記事以降も転売行為は相変わらず猛威を振るっている。現に未だ市中でPS5の在庫を見かけることは希だったりする。

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さて、前回は転売の類型についてまとめてみたが、今回は少し切り口を変えてみたいと思う。そもそも何故転売はこれほどまでに多くの人間が参加する一大コンテンツになったのだろうか。昔からダフ屋などは居たが、現代では転売行為に参加するプレーヤーが激増しているように思えるのである。

例えばカメラの例で言えば、あまり商品知識を持たないであろう学生などが中古市で棚とスマホを交互に見比べているというのはここ数年間ですっかり一般的になってしまった。彼らはスマホでオークションの落札履歴を見ていくら儲かるか検討しているわけだが、目の前にある品が買いかどうか即座に判断出来ない程度には相場を知らないと言える。

仮にも転売で食ってくんなら相場くらい頭に叩き込んどけやと毒づきたくもなるのだが、実際のところ現代の転売というのは職人的なせどりよりもこうした専門性を持たないライトなテンバイヤーが多いといえる。要するに儲かれば商材は何でもいいし、そこに専門性や思い入れは必要ないということなのだ。

そしてこれは逆に言えば、カメラ中古市のような比較的マニアックな趣味の空間であってもテンバイヤーが珍しくなくなる程度には転売が流行っているという証拠である。そういう意味でもやはり転売ブームなのではないかと言えるのだが、では彼らのようなライトなテンバイヤーは何故ここまで増えたのだろうか。

……とその前に、ここで前提となる話をひとつ。前回記事でも改めて示した通り、商売の鉄則は「仕入れ価格<販売価格」である。これは転売行為であっても変わらない。

故にテンバイヤーは新品を取り扱う場合は(定価以上の値付けが許容される)限定品や品薄の商品を狙い、中古品を取り扱う場合は瑕疵のある製品を安く買い叩いた上で瑕疵を隠して売る手法が儲かるということを前回記事で述べた。当たり前の話だがテンバイヤー以外のルートから同じ物が安く買えるというのであれば転売は成立しない。

さて、上記の通り転売行為には仕入れと販売のフェーズがある。仕入れに関しても色々あるのだが、結局のところ実際にカネになるのは誰かに販売してようやくである。確保したブツを高値で売り抜けて初めて転売で儲けることが出来るのだ。

そこで現代の転売行為にとって生命線となるのはブツを売り捌く販売先である。ほとんどの場合、ヤフオクに代表されるネットオークションか、メルカリに代表されるフリマサイトが担っている。これらは主に個人間での取引であり、これらのサイトは個人売買のプラットフォームである。

これらが使われるのは何故か。例えば新品転売の場合、ゲーム機などはよほどのことがない限り通常の中古買い取りルートに流しても単なる中古品扱いとなり購入価格を下回る(利益が出ない)からである。

また、中古転売の場合も買取店がそこからマージンを乗せて店頭に並べるわけだから、買取価格は店頭に並んでいる価格よりも安くならざるを得ない。直接売ればそのマージン分も懐に入れることが出来るわけだ。もちろん中には一般買取業者であっても品薄の製品ならばプレミア価格で買い取るというところも出てきてはいるが、その場合も中古転売同様マージン分値引かれることになる。なので、結局ネットオークションやフリマサイトと言った個人売買の方がよりダイレクトに「欲しいけど買えなかった誰か」に高値で売りつける(≒利益を最大化する)ことが出来るわけである。

現代のテンバイヤーは先に述べた通り、相場観や商品知識も求められない。要は転売できそうなモノを探し、確保し、売ることが出来るならそれだけで始められてしまう。この手軽さもブームの一因なのだろう。

で、前回記事では「転売行為で本当に儲けているのは転売ノウハウと称するものを高値で売りつけている情報商材屋ではないか?」と書いたのだが、こうしてみると他にも儲かっているところがありそうだ。そう、場を提供しているオークションやフリマサイトである。

オークションやフリマサイトでは取引が成立すると寺銭を支払うのが通例となっている。ヤフオクであれば落札システム利用料として10%(有料会員8.8%)メルカリの手数料も10%ラクマであれば6%(いずれも記事執筆現在)である。

さて、一般に転売行為では「転売する側(テンバイヤー)」「テンバイヤーから買う側」の議論になりやすい。あるいはここに巻き込まれる新品メーカーの事情が含まれることもあるが、多くの場合はそうした個々のプレーヤー同士の議論になるわけである。

しかし、転売行為で莫大なカネが動いているのだとすれば、そのうち数%の上前を常時掠め取っているプラットフォーマーは当事者そのものである。だが、多くの場合はこうした転売行為に関する議論において論じられることも少ない。つまり直接銃弾の飛んでこない場所で人知れず儲けているわけで、いろいろ考えると一番儲かってるのは実はコイツらなのではないかと思うのである。だいたい仮にテンバイヤーの立場で考えてみると、確かに売る場所としてありがたいとしても10%程度無条件で巻き上げられるのは腹立たしいしそもそもテンバイヤーでなくても10%は普通に高く感じる。しかしこれでもヤフオクとかは一時の殿様商売がマシになっており往時は月額有料会員でないと1万円以上の入札不可能で事実上勝負権がなかったとかマジで酷かったしあの恨みは忘れんぞ畜生。

そして、実のところプラットフォーマー側も「内容はともかく売り上がった分から無条件で10%程度の寺銭が入ってくる」のであれば、転売行為を積極的に規制するインセンティブを持たない。むしろ転売によって取引の額が上昇することは、そのまま彼らの取り分も上昇することを意味している。よって、表だって転売行為を応援はしないものの、積極的な自主規制もせず静観の立場を取っているように感じられる。

このため、直接的な規制が生まれるまでは転売行為に対してペナルティーを与えることもないだろう。直近だとコロナ禍においてマスクや消毒液の出品が禁止されたことは記憶に新しいが、これはそれに対する規制が生まれたことによる措置である(なお、現在は規制は解除されているが、各社では引き続き禁止扱いとしている)。ここまでやってようやく禁止になるのだ。

www.meti.go.jp

先に述べた通り、個人売買のプラットフォームが無ければ現代のテンバイヤーはおそらく成立しない。テンバイヤーにとって転売はあくまで手段であり、最終的に換金できなければ意味がない。そしてこの換金のキモが個人売買のプラットフォームになる為、無条件で徴収される寺銭やその税率(?)に対する不満はあるにしても相変わらずオークションやフリマサイトは利用され続けている。一方のプラットフォーマー側としても、自分達のサイトを利用し、多額の取引をするテンバイヤーというのは直接収入を増加させてくれるわけで悪い客ではないということになる。両者は相互に欠かすことが出来ない関係にあるわけだ。

そういえば、ヤフーオークションなどは終了直前の取消に対するペナルティーが強く望まれていることを知りながら、年単位でその要望を放置していることでも知られている。これもある意味「お得意様」に対する忖度なのではないかと思う。

オークション終了直前の出品取り消しをなんとかしてほしい - ヤフオク!改善レポート - ヤフオク!

※終了直前の取消が何故売り手に対する忖度なのかというと、不誠実な売り手は安価で出品し、オークション終了直前に希望の価格に満たなかったら取消することで安価で落札されてしまうことを防いでいるからである。この「見えない最低落札価格」に振り回されることになるので買い手としてはたまったものではないが、カメラカテゴリなどではこれが猛威を振るっている。これは不誠実な取引方法であると感じる。

なお、今回この改善レポートを引き合いに出そうと思ったらしれっとページごと削除されていたのでwebアーカイブから引っ張ってくる羽目になった。マジでそういうところやでYahoo!

また、フリマタイプの個人売買では製品知識を持たない出品者に対して無知につけ込んで本来の相場よりも遙かに低い値段を提示し、購入出来たら即座に高値で転売するというワンチャン狙いも横行している。前回述べた中古品の瑕疵を隠して販売する方法といい、転売が絡むとこのように不誠実な取引方法が横行していくのだ。その方が儲かるのだから。

しかし、これによってとばっちりを受けるのは主にテンバイヤー以外の参加者であるし、そうした取引が横行すれば個人売買のプラットフォーム自体もその信頼を無くしてしまうというのは前回も述べた通りである。個人的には、こうした行為で個人売買のプラットフォーム自体が衰退してしまうことを危惧している。

現代の転売ブームには出口として個人売買のプラットフォームが不可欠である。そういう意味ではプラットフォーマーは転売騒動の当事者に他ならない。だが転売に関する議論において矢面に立つことはほとんどない。また、プラットフォーマーとしては取引額の増大は収益向上に繋がるわけで望ましい。仮にそれが転売行為によるものであったとしても、である。

……こうした事実を考えると、転売ブームで最も笑っているのは個々のテンバイヤーではなく、個人売買のプラットフォーマーなのかもしれないというわけである。

ゴールドラッシュで本当に儲かったのは危険を冒した鉱夫ではなく、彼らに後方でジーンズを売った者なのだから。