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無名サイトのつづき

名前をつけてやる

名前は大事だ。

何故大事かというと、名前が付くことによって人々の間である概念や物事について認識し、共通の議題に載せることが出来るからである。

そう、この世の中には実は名前のないもので溢れている。たとえば読者の皆様も、胸に抱いた感情が既存の言葉──つまり、一種の名前でありラベル──で表せそうで表せず、どれも微妙にニュアンスが異なるせいで、他人に上手く伝えられずになんとも言えない気持ちになったことはないだろうか。

それだけに、気の利いた名前を付ける人、抽象的な概念やものごとを定義出来る人というのは重宝がられているように思える。

多くの人々の共通意識としてなんとなく共有されているものの、それを語りうる言葉がない為に見逃されてきたものたち──それらに名前を付けた途端、世界が広がったという例は過去いくつも存在している。

近年だとそれを最も感じたのは「町中華」という概念を知った時である。

ja.wikipedia.org

なるほどたしかに、非チェーン店の、どこにでもあるようで、その実それら同士ににはなんの繋がりもなく独立して、各地に根ざして愛されている……そんな料理店を総称する言葉というのはこれまでに存在しなかった。

そもそも「中華料理店」という言葉のカバー範囲もあまりにも広い。その言葉だけではそれこそ中華街にあるような高級店から、ニューカマーによる現地直輸入的なネイティブ店までカバーしてしまう(これは近年ではいわゆる「ガチ中華」と呼ばれている)。こうしてみると、町中華という言葉はそれら広大な中華料理店の枠の中から、ある種の属性を持つ店舗のことを明確に切り分けることに成功しているといえる。

そして皆の頭の中にふんわりと存在していた概念に「町中華」という名前が付いた瞬間、恐ろしいほどの化学反応が起きた。これまでこうした店を他人に紹介する時は「行きつけの古くからあるひなびた中華料理店」みたいなうすぼんやりした説明だったのが、今となっては町中華の三文字だけで通じるのだ。

そしてこの名前、店では無く客が言い出したことなので、そのニュアンスというか使い方は客側に任されている。ただしこの概念はこれまでに名前が付いていなかっただけで多くの人の頭の中にはすでに存在したため、町中華という明確なラベルが定まった結果、町中華の名の元に様々な名店情報が寄せられることにもなった。まさに名前が付いた効用だろう。そしてその振れ幅も、ある程度皆の納得のいく範囲に収まっているようだ。

さて、この町中華という概念、そうは言っても明確な定義はなく提唱者自身も明確な定義や規定は存在しないというスタンスを取っている。とはいえある程度指針というか傾向的なものはあるようで、先のWikipedia等に引用されている中では『昔から続いている町の中華料理店』『個人営業やのれん分けでやっている店』『昭和以前に開業』『1000円以内で満腹』『多様なメニュー』『マニュアルがない』『店主が個性的』といった傾向が挙げられている。

しかし、名前が付くということは、人々に共通認識が生まれると同時に、その言葉が言霊となり、いつしか一人歩きを始めるということでもある。そして町中華という言葉はあまりにも人々のかゆいところに手が届きすぎてしまった。結果として、一種のバズワード的な流行り方も起こしてしまった。

そして最近、その極北とも言える現象を見かけた。都内のある繁華街を歩いていたら、新しい飲食店がオープンしているのに気が付いた。オープンしたてなのかピカピカである。

そして看板には大きく朱書きでこうあったのだ町中華と。

そう、町中華というのはどこかの店が自分から名乗りだしたというものではなく、あくまでも皆の頭の片隅にあった概念を満たした店のこと客側が勝手にそう呼んでいた、そういうムーブメントだったというのに、いつしか店が自分から名乗るようになってしまったのだ。しかもこの「自称町中華」は、考えれば考えるほど町中華の概念に真っ向から対立している。バリバリの繁華街に、新店舗で、しかもチェーン(同じ屋号を掲げる別の店舗も確認している)なのである。要素を並べていくと、むしろ存在がアンチ町中華なのだ。

ちなみに軽く調べてみたところ、日高屋の系列だそうだ。流石に恥知らずだと思ったのか屋号に町中華の文字はないが、看板で最も目立つのは店名よりも朱書きの町中華の文字である。

かくして、概念に名前が付いたことによって……そしてその名前が人々にとって使い勝手が良すぎたせいで、いつしかこの名前は本来持っていたニュアンスから離れていってしまった。

これこそが名前が名付け親を離れ、一般大衆にまで普及した証拠なのかもしれない。だが、一方でその離れた姿を見る度に心の奥が疼き出すというのもまた確かなのである。

誰かこの胸の痛みに対して、気の利いた名前を付けてくれないだろうか。